迷いの窓NO.98
烏の啼いた日(3話)
2006.4.30
  カラスの並外れた愛情や種を守るための果敢な戦いぶりにも人間が学ぶことは多い。
巣を攻撃されたり、卵や雛がいる付近の木を見上げただけでも威嚇して鳴くだけでなく、人間の顔を覚えていてなわばりから離れるまで追いかけてもくる。
大切な命の安全を脅かす人間を決して見逃さない。「見るだけ」も許さない鳥なのだ。

  日本人なら誰しも知っている童謡「七つの子」、カラスによいイメージを抱いていない人でもこの歌を耳にして嫌だと思う人はおそらくいないだろう。
いつ聴いても心にすう〜と融け込んでくるような日本人が求めて止まない原風景がそこにある。

  皆さんは「七つの子」の「七つ」という解釈に「七羽説」と「七歳説」があるのをご存知だろうか?カラスは通常4〜5卵しか産まないから七羽は考えられないとか、カラスの七歳は子供ではないので七羽であるとか、親子の会話という情景を思い浮かべるなら、七歳の子と読み取れる等々真剣な議論は尽きない。

  思えば“七”とは不思議な数である。七つの子は「六つ」でも「八つ」でもいけなかった気がする。古今東西“七”は聖なる数であった。月の満ち欠けも28日で、人間の成長も7歳ごとに区分されることはよく知られている。東洋的には北斗七星に象徴され、仏教では“さば”ではないがお釈迦様が生れ落ちて7歩歩いたと伝えられることや、七日ごとの法要など特別な数字である。

<七は具体的な数や歳ではなく「たくさん」の意味である。>との解釈もあり、作詞をした野口有情氏はその点について言及していない。
しかし、著書の中に<この歌詞中「丸い眼をしたいい子だよ」と歌ったところに童謡の境地がある。その境地は如何なる場合にも愛の世界であり、人情の世界でなくてはならない。>と述べている。
何れの説にせよ私たちはこの歌の中に、懐かしさを覚えたり様々に想像力を巡らせたりして、カラスも人も子を思う気持ちには変わりはないという情愛に打たれるのである。
人は誰しも他者を思う純真な優しさに触れた時、素直になれるということだろう。
ここまでくると、
「たとい七歳の女流なりともすなわち四衆の導師なり、衆生の慈父なり、男女を論ずることなかれ、これ仏道極妙の法則なり」
という『正法眼蔵』の一節が思われる。

  また中国の『十六國春秋』に「烏有反哺之孝(からすにはんぼのこうあり)」という記述があり、それは<からすがひなのときに養われた恩返しに親に口うつしで食物を与える孝心がある。転じて人も孝心を持たねばならない。>という意味であるという。
カラスは子煩悩であるばかりでなく、孝心もあるというのだ。

  人間界には子供を虐待する親や平然と殺してしまう親もいる。子供に無関心な親もいれば、子離れできない親もいる。さらには親を殺す子供、長じて親を虐待する大人もいる。
人間にとって最も身近な野鳥であるカラスは本来人間に具わっていたはずの親子の情愛や大切なものを守ることの尊さを教えてくれる。
そしてゴミを増やし続け、自然を破壊し、生態系を脅かす人間達に常に身近なところで警告を与えてくれている存在なのかもしれない。
カラスは決して「烏合の衆」などではない。仲間が窮地に陥れば助けもする。
その警告を今人間がキャッチしなければ、ヒッチコックの映画『鳥』のように、ある日突然スズメやカラスといった野鳥が一斉に人間を攻撃してくるかもしれない。あの映画をご覧になった方なら言い知れぬ恐怖を忘れたことはないだろう。

  今や鳥たちは世界の各地で受難の時をむかえている。世界遺産に加えられた知床では5千羽以上の海鳥の死骸が油まみれになって海岸に打ち上げられた。未だに原因は不明だが、道内ではスズメの大量死が報じられて、最近スズメを見なくなったという情報も寄せられている。鳥たちにとって最大級の危機は鳥インフルエンザである。関係のない白鳥や鴨が大量に処分されたというニュースも海外から聞こえてくる。
海鳥の死亡原因が重油の不法投棄であれば明らかに人間に罪がある。
それらのことが積もり積もって、鳥という鳥が敵意をもって人類に襲いかかってきたとしたらどうだろう?
いや、それよりもっと怖ろしいことがある。
太陽を世界にもたらしたカラスがいなくなってしまったら、忽ちこの世界は暗黒につつまれ、あらゆる生物が死に帰してしまう。

  先日湯の川温泉に一泊した際に、展望風呂から日の出が見えるというので、カラスよりも早起きをした。北国の朝は早い。日の出の予想時刻は4時46分であった。残念ながら朝から雨が降りだし、厚い雲がかかってご来光は拝めなかった。

  しかし、明烏が空を悠々と飛ぶ姿だけは確認できた。
それが一瞬、烏帽子(からすもうす)と呼ばれる「黒い水冠」に見えて眼をこすった。
美味しい魚介類に恵まれているせいだろうか?ハシブトかハシボソガラスか判別できないが、濡羽色の美しいカラスであった。
黎明の中で、私はカラスに導かれ自然への畏敬の念を心に刻みながら、点のように小さくなったカラスが再び太陽をつれてきてくれることを願わずにいられなかった。

「カア〜」とひと際甲高くカラスが啼いた。

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