迷いの窓NO.97
2006.4.30
烏が啼いた日
(2話)
  そもそもゴミが増えなければカラスは個体数を増やさない。
鳥類の中でおそらく最も賢く、原始人に匹敵する知能を有すると目されるカラス。必要以上に食べることはないそうだが、採った餌を隠しておく「貯食」という習性があり、何をどこへ隠したかを脳に記憶しておかなければならない。
知能が発達しているのはそのためである。また、木の実や貝を割るために空から道路に落として車に轢かせるという知恵もある。キャッチボールやブランコなどの遊びもする。言葉も覚え、人間ともコミュニケーションをとれるなど学習能力も高い。

  カラスは猛禽類のように生きたものを襲うことはないと言われる一方で、雑食性のため「陸の掃除屋」とも呼ばれる。
かつてアイヌの狩人たちは山へ狩に行き、林の上にカラスやカケスが旋回しているのを見て、シカなどの獲物の所在を知った。アイヌはそのお礼のしるしに彼らのために肉の一部を木の枝に掛けたのだった。キツネの分は雪の上に置いた。サケ漁の際にもたくさん獲れたときにはカラスの食べる分を砂にまみれないようにきれいに洗って砂利原に置いた。アイヌ民族はすべての生物が物を分け合って食べるという気持ちが常にあるのだという。(HP『アイヌの里二風谷に生きて』より

  この話を聴いた時、私はふと「おりくぜん」のことを思った。函館ではこう呼ぶが、仏様に供える「霊供膳」のことである。曹洞宗が多い函館では、法事や月のお命日にお寺様が霊供膳の浄水の中にご飯を何粒かお箸で入れる作法はよく見慣れていた。お浄水は大地に返すことで草木が潤い、ご飯は鳥がついばめるように木につけたり、外に撒いて虫などの小さき命にも分け与えると聞いたことがあった。そういうことを教えてくれたのは昔は年長者であった。
この作法について疑問に思っていたが、有難いことに函館でご縁をいただいたお寺様に、誠に明快なお答えを頂戴することとなった。これは禅宗で修行僧が行う作法を身近な霊供膳で実践しているものだという。お椀類(応量器:おうりょうき)の中で、お椀を白湯で食べ終わって洗う作法と道具があり、道具の先に七粒“さば”をとり(さばは生飯と書く)、係の修行僧が集めて施すそうである。
生きとし生けるものすべてに施す=還元ということを教わった。
<見えない生物への思いやりと感謝の心をささげ、共生を喜ぶ>誰に教えられたのでもなく我々の祖先は原始時代から生きる知恵として体得していたのであろう。

  世の中は飽食の時代になり、確かに豊かで便利になったが、必要以上の“もの”であふれている。自分が食べるに相応する人間か?などということは考えもしない。
その結果、食べられるものを粗末に扱うようになってきた。過剰包装がゴミを増やす。消費期限切れのものを毎日大量に廃棄している。
私が子供の頃はどこの家も残飯を畑などの土に埋めていた。
その種から自然に芽が出、花が咲き、りっぱに実った美味しいかぼちゃを食べた記憶がある。
これぞまさしく天恵!と思った。
現代では仏様のお下がりをいただくという習慣も薄れてきた。仏様に供えたものをいつまでも上げていてかたくしたり、お線香臭いと言って平然と捨ててしまう人がいる。
私自身も冷蔵庫や冷凍庫を頼りすぎて食料をダメにしてしまうことが日常的にあって、大いに反省させられるところであるが、お仏壇に上がったものだけは粗末にするまいと思っている。

  ゴミのあるところカラス現る。カラスと人間は共生関係なのだから・・・。
カラスは営巣にハンガーやビニールテープを利用することもある。
人間の捨てたゴミを再利用するとはお見事だ!
ゴミの分別をしない人間、ものを無駄にし、使えるものまで次から次へとゴミにしてしまう人間の暮らしをカラスはすべて見ている。
カラスは人間を映す鏡という人がいる。
そもそも八咫烏は八咫の鏡と一対をなしているのだから当然かもしれぬが・・・。
人間の心の鏡がくもっているのに、それを認めたくないがためにカラスを悪者にしたてあげてしまったのかもしれない。ゴミをあさったカラスが始末に終えないと、人間はついに「駆除」という手段に出る。
それはあまりに人間の横暴というものではないか?!
駆除より先に、ゴミを少しでも減らすことを考えなければならない。(NO.98に続く
  
 
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