迷いの窓NO.58
命輝く時
2005.3.13
  ある朝いつものように叔母が新聞を読んでいる。
どの記事よりも先に目を通すのは死亡広告である。
北海道では個人の葬儀であっても、死亡広告を載せるのが一般的。
叔母は義理を欠かさないようにと「今日も沢山の人が亡くなったんだね。次は私の番でしょ。」とひとり言のように呟きながら、毎朝穴のあくほど黒枠の隅々まで眺めている。
時にはその内容に、例えば<○○病院の○○先生をはじめ看護師さんには大変お世話になりました。>という文章に、「こんなのは要らないことだね。」とか、「この広告には故人の人生が垣間見えるようだよ。簡潔で実にいいね。ご立派!」などと感想を述べたかと思ったら、「あら、床屋さんのお父さん、亡くなっちゃた。」と知っている方の名前を見つけるのである。

  その朝はいつもと少しばかり様子が違っていた。
「そうまあきらさん?って聞いたことある名前だね。」と私に語りかけてきた。
「そうま・・・あきらさん?」次の瞬間、「それって相馬暁(さとる)先生じゃないの?」と身を乗り出して新聞を覗いた。間違いなかった。
黒枠から目を転じると、大見出しで訃報が伝えられていた。

<がんと向き合う野菜博士  相馬暁さん死去>

  拓殖道短大の教授であり、道立農業試験場長としてもご活躍された先生は、地球に優しい、人に優しい、作物・家畜に優しい農業を提唱され、有機農法や減農薬で人の命を育む農業を北の地で実践してこられた。
軽妙でユーモアあふれる語り口が魅力で、講演でも人気を博したと言われる。

  2003年7月に膵臓癌が見つかり、「余命240日」と宣告された先生は「700日は生きてみせる。」と闘志を燃やされ、2004年1月から週1回のペースで『がんと向き合う』というタイトルのコラムを北海道新聞に執筆されていた。
そのコラムが癌で苦しむ人に勇気を与え、あるいは生き方を見習いたいという読者に共感を呼ぶようになった。
HP上でも公開されているので、私はお気に入りに登録して時々訪問していた。
1月26日のコラム「病人にも夢を語る資格が・・・」を最後に2月になっても、3月に入っても更新されず、愛読者としては「先生、700日までにはまだ時間がありますよ。」と心の中で念じながら、更新の日を待っていたのだった。
後に「700日」の意味を知ることとなったが、拓殖道短大に自らが中心となって開設した新規就農コースの1期生が卒業し、実際に農業に踏み出す今夏を見届けたいという思いがあったという。新聞記事を読んでからHPを開けると、確かに<2005年3月10日63歳で死去しました。>と加筆されていた。これきりもう更新されることがないのだと思うと一抹の寂しさがあった。

  先生を追悼するように、コラムをもう一度読み返してみた。
ウイットに富んだ歯切れのよい行間の中に、「愛」が満ち溢れている。
ご家族への愛、農作物や土への愛、そして食を育む人間への愛。
コラムには奥様やお嬢様の話題も登場するが、私が最も感動したのはNO.29「似たもの夫婦と言われるが」の中に繰り広げられる病室でのワンシーンである。
真夜中に激しい痛みと滝のように流れる汗にうなされ目を覚ます先生の傍らに、甲斐甲斐しく看護をされる元婦長さんの奥様の姿。
眠れぬ夜に声をひそめて新婚当初の思い出話に花を咲かせ、頬を指で突いたり、耳たぶをつかんだりするうち、先生は奥様を美しいと思う。
その描写が素晴らしいのだ。
<妻は美しい。特に、その寝顔が美しい。・・・シミの一つ一つは夫婦の歴史であり、互いに経験してきた苦労の跡である。それを思うと、妻のシミに感謝し、その数に頭が下がり、美しいと思う。>
「シミが美しい」なんて、どんな艱難にあっても人生を共に生きたご夫婦にしか表現できない、妻にとって最高の賛辞であろうと羨ましく思う。

  私たちは病を得て死を宣告されない限り、あるいは精神的な病で死神にとりつかれない限り、明日死ぬとは思っていない。
だから、今日出来ることを「あすなろう、あすなろう」と言って檜(ヒノキ)になれなかった翌檜(あすなろ)の木ではないが、もっともらしい理由を並べてみては、「明日があるさ。明日やればいい。」と今日の努力を惰り、楽な道へ流されてしまうことが往々にしてある。
家族にしてみても水や空気のように、いるのが当たり前、どうかすると互いのパートナーを粗大ゴミとか煙たい存在として感謝の心を言葉にするのも忘れがちである。
お経でよく聞かれる「朝には紅顔ありて、夕べに白骨となれる身なり・・・」実際に身に降り懸かるまで、そんなことはないと決めつけているのだが、天命を知らぬだけのことである。

  人は運命(さだめ)を背負ってこの世に生を受ける。
「命を刻む少女アシュレー」のドキュメンタリーで知られるようになった「プロテリア」という病気がある。染色体の異常によって、恐るべきスピードで老化する病気である。
わずか12歳で100歳の体力年齢。
自分の宿命を受け入れ、前向きになおかつ周りの人をハッピーにしたいと考える少女の生き方が「命とは何か?」を問い掛けた番組には多くの反響が寄せられた。
過酷な運命を背負った少女、同病を励ましあう兄のような存在の少年の口から、「命は長さじゃない。どう生きたかだよ。」という言葉が発せられた時には、あまりの衝撃に、一瞬時間が止まってしまったかと思った。ここにも限りある生をエネルギッシュに燃焼させている命の輝きがある。

  いかに生きるべきか?私達は死ぬまでその答えを探し求めなければならないのだろう。
「人は見事に人生を生き抜かねばなりません。」とメールを下さった我が人生の師、そして、「自らが光り、輝かなければならない。」と教えて下さったベルギーの大切な方の言葉を今思い起こしている。

  相馬先生の見事に輝いて生き抜かれた人生には、如何なる哀悼の言葉よりカーテンコールが似合うと思う。
先生の見果てぬ農業への夢と取り組みが、教えを受け継がれた農業家や、研究者、学生達の手によって、相馬先生のシナリオ第2幕としてステージの幕を開ける日を、観客席にいるファンの一人である私はスタンディングオベ―ションで迎えたい。
そのステージとはもちろん、先生が開発に関わった道産米「ほしのゆめ」の名に託された思いの如く、この“北の大地”である。

迷いの窓 メールへ