迷いの窓NO.49
介護の部屋8
2004.12.13
  電話をかけてからほどなくして、一人の青年がガソリンスタンドからストーブを見に駆けつけてきてくれた。
タンクからストーブへ接続される灯油の管は安全のために元々細く出来ており、使っているうちに針の先ほどになって詰まってしまうことがあるという。
特に湿気が多くなる11月によく見られる現象らしかった。
説明しながらも手際よく掃除する手を休めない。
確かに叔母の具合が悪かったので、長い間ストーブのオーバーホールをしていなかった。
ガソリンスタンドにとって灯油の販売は中継の仕事である。
タンクローリーはメーカーからやって来る。どう考えてもそんなに利益は上がりそうにない。
まさかストーブまで点検してもらえるなんて思ってもみなかった。
「こんなことまでするの?」と尋ねると、「灯油を買っていただいているお客様には無償でさせていただいています。」と言って、出張費も取らないというので気の毒になってしまった。

  このスタンドの所長さんは体格がよく、声も大きく、太陽のように明るい実に笑顔の素敵な青年である。常に頭が低く、愛想もよい、何よりお年寄りに対する優しさが人柄ににじみ出ている。
叔母は「気持ちのいい若き所長さん」と呼んですっかりお気に入りである。
「さすがにあの所長さんのところの人だけあるわね。」と感心していた。
煙突はお隣に住む大工さんに見てもらったばかりだったが、今年の台風で折れているのに気付かずに使っている間に水が溜まり、ストーブの故障の原因になっていることもあると、裏へ回って煙突の確認をするという念の入れようだった。
作業の時間は20分ほどだったと思う。
ストーブの火が赤々と燃えるのを見たときには、何とも言えない幸せな気持ちになった。
ストーブの暖かさも然る事ながら、スピーディーで物腰の柔らかい人の温もりに心をあたためられた思いであった。

その姿に潔さを感じるのは、何の見返りも求めず、ただひたすらお客様のためという使命感が流露しているからであろう。
これこそ恩を知り恩に報いる「知恩報恩」と言うべきか!
こんな優しい人たちのいる町で生きられることをつくづく幸せに思う。
心の感じられないマニュアル対応しか出来ず、言葉のフォローさえもない世知辛い世の中にも、こんなことがあるのだと思ったら、日本もまだまだ大丈夫のようだ!と希望が見えてきて、心はストーブの芯のように明るくなった。
私も感謝の心を忘れずに、この町に根ざして人の役に立てる人間でありたいと思う。

  朝、目を覚ました叔母が時々「このまま永久に眠りたい。」と口にすることがある。
朝から清々しい青年を見て「良かったね。助かったね。」と喜ぶ姿を眼前にすると、「生きていたらこんないいこともあるよ。もう少し頑張って生きてみようよ。」と言いたいような気持ちであった。

  「袖すり合うも他生の縁」という言葉がある。
「他生」は「多生」とも書く。
本来は前者が前世(前生)からの因縁、後者が幾多の生死を繰り返す間に生まれた縁という意味であったが、現在では混用されているようである。
「親子の縁」も「袖すり合う縁(わずかのふれあい)」も「他生の縁」
前世を信じるか否かは別にして、誰しも一度や二度はどうにも説明のつかない巡り合わせの不思議な「縁」を感じた経験をお持ちであろう。
母と私が親子二代に渡り共に暮らすことになった叔母との縁は、よほど深いに違いない。
この縁は決して今生のものだけではないと私は信じている。
来世はどちらかが子であり親であるかもしれない。
同様に袖すり合う縁も自分の心のありよう一つで自分に戻ってくるのだろう。
どんな時にもなごやかな心で人に接することを心掛けたいものである。

  「悪縁に遭えば迷いとなり、善縁に遭えば悟りとなる。」とは日蓮上人の言葉であったか。
悪縁に遭わなくても迷ってばかりの人生だが、自分の心を真理の鏡に映してみる勇気だけは持ち続けていたいと思う。
来世に巡る善縁のためにも・・・。
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