迷いの窓NO.43
亥の子餅
2004.10.2
  旧暦で10月は亥(十二支のいのしし)の月。
亥の月、亥の日は、古くから万病を除き、子孫が繁栄するという謂れで「亥の子餅」を食べる習慣があった。
この習慣はすでに平安時代からあり、源氏物語の中で源氏の君と紫の上が新手枕(にいたまくら)を交わした日に食されたという描写がある。

  また、お茶の世界では「炉開き」といって風炉をしまい、地炉を開いて新しい年を迎えるお正月に当たる。
新茶の壺を開く口切のおめでたい茶会が厳かに催され、邪気を払うための「亥の子餅」が主菓子として用意されたと文献は伝える。
それは、正にお茶の世界の神事と言えよう。
宮中では「祝いの亥の子餅」のことを「玄猪餅(げんちょもち)」と呼び、お茶道具の中にも玄猪にちなんだものが残っている。
現在は新暦のため、開炉は11月に行われることが多く、茶家によっては必ずしも「亥の子餅」が登場しないようである。

  農家ではいろりを開いて火を入れることを「炉開き」と呼び、掘りごたつを開くことから「炬燵切り」とも言われていた。
やはり火難を免れる意味で、今でもこの日に暖房器具を出す地域もある。

  実はこの行事は古代中国の哲学である「陰陽五行説」によって明確に裏付けされている。
「陰陽五行」という哲学は中国から伝えられて平安時代「陰陽師」たちによって盛んになり、天文学や暦、易学を発達させたが、同時に稲作民族である日本人にとっては民俗学の見地からも重要だったのである。
簡単に説明すると、<宇宙の万物は陰陽という二気によって形成され、自然の秩序を保っている。この陰陽から生じたのが木・火・土・金・水という五行であり、一年という単位を五行の循環と考える。つまり四気を春夏秋冬の四季に配当し、土気を各気の中央に置いて四季の巡りを促す術>とある。  そのために様々な年中行事が営まれる。

  五行循環によると、お正月は十二支の寅の月にあたるので、10月は亥の月。
亥の月は水気の始め(冬期の始め)にあたる。
さらに陰陽の八卦によると究極の陰となるため、火をつかさどる炉の事始には最も相応しい月といえる。  10月が和名で「神無月」と呼ばれるのも、陽の気を欠く無の象徴であり、神の不在を暗示するからである。
陰の気が盛んになると人体にも影響を及ぼす。
故に土は水を相剋するという意味で、10月の亥の日に大豆、小豆、胡麻、栗、柿、糖、大角豆(ささげ)の7種類の粉を以って作られた餅を食べる習慣が生まれた。

  この日の晩は必ず風雨が吹くといい、「亥の子荒れ」とも呼ばれている。
五行では風は「木気」。亥は卯と未を結ぶ「三合の理」という法則により、田の神、作物の神、農耕神「亥の神さま」になって、古くからお百姓さんの信仰の対象となってきた。
このようにして我々の祖先は自然に従い、行事を行うことで「気」のバランスをとりながら、自然の恵みを享受し、農耕を行い、自らの無病息災を祈ってきたのである。
そこには、理に叶った「生きる知恵」があったのだ。
「いのしし子沢山」という単純な発想では決してない。

  和菓子屋さんに並ぶ「亥の子餅」。
食する時にそんな“祝いの気持ち”を思い起こしてみるのもよいかもしれない。

  臨済宗の宗祖栄西が伝えたといわれる「お茶」と禅の関係は深い。
私は幸運なことにご縁があって、妙心寺山内の由緒あるお寺の茶室でお稽古させていただいたことがある。

  炉開きの日、初炭点前を拝見させていただいた。
炉縁に進み出て、胴炭、丸ぎっちょ、割ぎっちょ、てん炭、管(くだ)炭と呼ばれる炭が、これも予め整えられた灰の中に美しい景色を創造していく。
特に枝炭と呼ばれる石灰を塗った白い炭は、冬の白樺を思わせ、不思議な趣を添える。
やがてぱちぱちと炭の音が聞こえ、小さな火の粉を舞い上げる様は、まるで火の神様がそこに宿っているようであった。
炉中の灰に練香が火箸の先から下ろされると、梅の香がほのかに立ち上り始め、炭の香りと相まって幽玄の世界へと空間を誘う。
この時初めて「茶事の見どころは床に生けられた花と炭のうつろい」という言葉の理解に至ったような気がした。
清澄で厳かな雰囲気の中で火の安全を祈る儀式は滞りなく終わり、五徳の上に釜が静かにかけられる。

   しばらくすると釜の湯は徐々に温度を上げながら煮立ち、最初は途切れ途切れだった釜の音が、次第にシュンシュンと美しい音色を奏で始めた。
これが世にいう「松籟(しょうらい)()」。   松に吹く風の音に似ているのでこの名前があるそうだが、これは音を楽しむために釜の底に鉄の小さな破片を漆で付け、わざわざ音が出るように作られているという。
しかし、茶釜がすべて鳴るわけではなく、いかに名工の手によって細工された音の秘密も、湯の煮立ち具合や炭の火あいといった一定の条件が重ならなければ、聞くことは叶わぬという。

  この音は神様に聞いていただくだけではなく、邪気が体内に入らないようにする一つのおまじない。 松籟の音を聞いていると五感が研ぎ澄まされ、何とも穏やかで幸せな気持ちにもなり、今も各地に残る「釜鳴り」という神事のように、「神が願い事を承知すると釜が鳴る。」という言い伝えを信じたくなってしまう。

  季節の移ろいの中で「気枯れ」するこの季節。
邪気が入る隙を与えない、気枯れに通じる「けがれ」を払う行事は、雑音に紛れて自然の中から「気」を養うことのできない現代人にこそ必要とされているように思えてならない。

  ちなみに旧暦亥月の今年の最初の亥の日は10月11日、本来はこの日の亥の刻(午後9時〜11時)に「亥の子餅」を食べるのが、正統派の召し上がり方である。
参考文献:吉野裕子著『五行循環』人文出版
              志野流香道機関紙『松隠』第30号より熊谷功夫編「日本文化の色、音、香り」
              『茶の湯と陰陽五行』淡交社

              『灰と灰形』淡交社
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