迷いの窓NO.2
徳の香り

2003.8.13
香に図柄の香炉
ホームページをご覧になった方の中には、お寺様とのエピソードやあまりに宗教色の強い表現が多かったためか、抵抗感を抱かれた方もいらしたようである。
「凡夫」、「衆生」などと言う言葉が、あたかも私自身が信仰のあつい仏教徒のような印象を与えてしまったかもしれないが、私は残念ながら信仰というものを持ち合わせていない。
“残念”と言うのは、信仰を持っている人のほうが信仰の無い人より一つ多く世界を持っているので、羨ましいという意味である。
もっとも、信仰宗教も一頃世間を騒がせた「人を殺人者に変えてしまう」ようなものであっては困る。

今までお出会いした高僧のことにも触れたが、実際には“葬式坊主”と言われる宗教者の方がはるかに多いし、果ては葬儀社の女性にセクハラをする呆れた“生臭坊主”も存在する。
宗教者といえども人間である。迷っているのは衆生よりもむしろ聖職にあるべき宗教者の方かも知れない。

しかし、高僧に限らず人間として徳の高い方は、その存在だけで「徳の香り」があちらから馨しく訪れるものである。
「この方は違う」と思わせる人は、決して高みからものを言われず、知らず知らずのうちにお人柄に引き込まれ、交わす会話や同じ時空を共有することで、充足感とか穏やかな心持ちを与えられるような気がするから不思議である。
その不思議な感動は、私には表現することがなかなか難しい。
聞香ではないが、どれだけ多くの「徳の香り」を聞くことができるか、また嗅覚に記憶された「徳」から如何にして自分の感性が高められるかで、生きていくことの喜びも生まれてくるのではあるまいか?

さて、私の「家」の宗旨は日蓮宗であるが、自身はあまり宗教にこだわっていない。
もし、自分の葬儀という仕儀になったら、美しい賛美歌で送られるキリスト教式に憧れたりもするし、例えばプラネタリウムのある葬儀式場(おそらく今は現存しない)で無宗教葬も有りかな?
音楽も好きな聲明であったり、趣味のタンゴであったり、送っていただく方に、アロマキャンドルでライトセラピーを体感してもらうのもいいかも?などと不遜なことを夢想したりする。
これも葬祭業に携わった者の、一種の職業病かもしれぬ。

信仰を持たない私ではあるが、宗教に学ぶことは多い。
特に儒教と結びついてきた仏教の教えには、時を超えて我々が生きるために必要な未曾有の知恵が詰まっているような気がする。
それを知らずに通り過ぎることは実にもったいない!と思うのである。
 
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