迷いの窓NO.95
悟りの窓
(後編)
2006.3.15
  美しく見えることには共通性がある。
社交ダンスの教師が「美しい姿勢は洋の東西を問わず同じではないか!」と言われた言葉が印象的である。礼法や弓道について尋ねられたこともある。表現者というものはあらゆることにアンテナが働いているものだと感心させられた。
なるほどそれらのどれもが、重心は丹田にあって中間バランスを保っていなければならず、その型や姿勢は呼吸と連動している。そこに平常心が一体となった時、「真なるもの」「善なるもの」となり、見る者の美的感覚を喚起するのだ。

  ところで丹田の“丹”の字は土を掘った枠の中から水銀を含む赤い丹砂が出る様子を表したもの。万金丹などの練薬の他にご存知のように丹頂鶴の赤い色、丹精や丹念という言葉があるようにありのまま、飾り気がない、まごころという意味がある。
「にほふ」という言葉はもとは「丹穂生」と書き、丹の色が秀でている様子(物事の優れている意味)を表したのではないかという説がある。
現在使われている「匂う」という字は日本でつくられた漢字で、「つつみがまえ」というところが日本の包装観に通じ、「ものを包むことは心をつつむこと」つつましさを美徳とした日本人の心を象徴しているのではないだろうか?
それは取りも直さず現代人が兎角形式ばったとか、まどろっこしいと感じている礼儀作法の中に、そして奥義を持つすべての「道」と呼ばれているものの中に脈々と生き続けている。

  この世とあの世の結界がある葬儀式場にも同様のことが言えまいか。
非日常の儀式空間には宗教者や葬儀者の存在があり、そこには空気を清浄にする香だけではなく、人の“送る心”という匂いがあって然るべきだ。匂いや香りは人を選ばない。
仏の慈悲の如く普く行き渡る。それをキャッチする感性を持ち合わせていれば、人は自らがどのように存在しなければならないかに気付き、心豊かな時間を共有することができる。
願わくば心安らぐ人と、なるべくよい香りに包まれて過ごしたいものだ。

  先に人間は息を吐いて生が始まると書いた。吸うためには吐くことが重要だ。
息を吐ききった人だけが、いっぱい新鮮な空気を取り込むことができるからだ。
呼吸はまず吐くこと。悪い気を吐いて善い気を取り入れる。だから息は雑に扱ってはいけない。
雑に吸っても吐いても一息は一息だ。人は一息ごとに確実に死に近づいていく。
一呼吸を人生の縮図に譬えることもある。
呼吸は命を繋ぎ、人を繋ぐ。呼吸をすること自体が“会者定離”なのだ。
正に永訣は日々の中にある。
この一呼吸を意識するかしないかで人生の充実度は大きく変わってくることだろう。
浅い呼吸しかできなくなり、キレやすくなった現代人には今こそ腹にいったん溜め込み、収めるような深い呼吸が必要であると打越暁先生は語る。
ヨーガでも太極拳でも、気功でもよいし、何も特別なことでなくてもよい。
一日に一度胸郭を膨らませるだけでもよい。
さあ、息を知って、よい気を吸って、生き生きと匂い立つような人生を送ろうではないか!

 哀しき凡夫は今日も人生という的へ向き合う。
「あるがごとく、なきがごとく」求める道の奥義を窮めるまでには長い年月を要するだろうが、いつかベルギーの友のメールに綴られていた「的に中るとは、蓮の花が開くような感じではありませんか?」という言葉に心眼を開かれた思いがした。
的、それは自分そのもの。
発芽した蓮の種が“悟り”という名の花を開くまで、今はひたすらあの『窓』と重ね合わせて大宇宙と一体となる一円相をイメージすることにしよう。
はく、すう、はく、すう・・・心境一如になるまで・・・。



参考文献:『呼吸を変えれば元気で長生き』打越暁著(洋泉社)
              『弓と禅』オイゲン・ヘリゲル著(福村出版)
              『一本の茎の上に』茨木のり子著(筑摩書房)
              『父・こんなこと』幸田文(新潮文庫)
              『禅2005・19号』(人間禅出版部)
              『香三才』畑正高著(東京書籍)
              『クロワッサン 保存版 誰にでもできる気功のすすめ』


<参考>

大賀ハス・・・昭和26年ハス博士、大賀一郎教授が遺跡から発見された2千年前のハスの種 を見事に開花させ、古代ハスは「大賀ハス」と命名されている。
右サイトから美しい画像をご覧下さい。http://www.geocities.jp/hasutanuki/


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