迷いの窓NO.93
悟りの窓
(前編)
2006.3.15
<永訣は日々の中にある。
日々の出会いを雑に扱いながら、永訣の儀式には最高の哀しみで立ち会おうとする人間とはいったい何だろうか?席を変えてお酒などのむ時もしみじみ故人をしのぶでもなく、仕事の話、人々の噂で呵呵大笑、あっけにとられるばかりである。好きな人であればあっただけ行きたくなくなってくる。>  
『一本の茎の上に』より

  上記は先月19日に永眠された詩人茨木のり子さんのエッセイの中にある「一輪の花といえども」からの抜粋である。
彼女の詩の世界との邂逅は私にとって衝撃の連続であり、知れば知るほど二千年の時を経て発芽した大賀ハスとは言わぬまでも、自身の中で眠っていたか、あるいは今蒔かれた種が“ぷちん、ぷちん”と音を立てて次々と息吹を与えられ、弾けていくような一種の感覚がある。
凡夫の哀しさと言うべきか、人間は今日という日が二度と取り戻せないことを知りながら、天寿というものを知らさせていないばかりに毎日を悔いなく懸命に生きるということが困難である。
出会いを雑に扱うとは?如何なることか?
この文章に茨木さんの確かな息づかいやため息を感じながら、生きるために欠くことのできない呼吸さえ必要がなければ意識すらしていないことに気がついた。

  人間はおぎゃ〜と息を吐いてこの世に生を享け、息を引き取って(息を吸って)死を迎える。
前号に書いたサンサンてるよ様のホームページに哺乳動物が一生の間に呼吸する回数や心臓のドキドキする回数がほぼ同じであり、「長息は長生き」というフレーズを見つけて一瞬ドキッとし、次の瞬間には思わず深呼吸をしてしまった。

  私が呼吸を「呼吸法」という言葉で強く意識することになったのはヴォイストレーニングを始めてからである。
それまでにも朗読はもちろん、小笠原流礼法、香道、弓道、これらのすべてが「呼吸法」という共通項を持っていることは頭のどこかにあったのだが、それが明らかな関連性をもって一円相を描くには未だ体配が整っていなかったのである。
その鍵を渡してくれたのが、先日来読みたいと思っていた『呼吸を変えれば元気で長生き』という呼吸器科の医師の綴った一冊であった。この本に出会って、ようやく呼吸を知るための糸口と出口を見つけることができた。

  サンサンてるよ様が参考にされた『ゾウの時間ネズミの時間』のこと、今読んでいるオイゲン・ヘリゲル著『弓と禅』のこと、更に今月朗読の録音作品に選んだ東洋思想の“気”という概念について深い考察をし、気や呼吸の重要性を説いた幸田露伴を父にもった幸田文さんの『父・こんなこと』のことも書かれており、甚だ奥が深くて消化不良気味ではある。だが、まるで呼吸を合わせたように集まってきた事象が偶然とは私には到底思えないのである。
そしてどれほど今の私を覚醒させてくれたことか?!
四苦八苦、いつも迷ってばかりの水冠が、三年前の三月住み慣れた京都に別れを告げる直前に茶道の師と人生の大先輩、三人で訪ねた鷹ヶ峰源光庵に見た円相の窓に思いを馳せながら、今日は『迷いの窓』ではなくて『悟りの窓』を開けることにしよう。

  歩き十年と言われる小笠原流礼法のお稽古ではすう、はく、すうと一歩ずつ呼吸しながら二間を九歩で歩く。立礼においては吸う息で屈体し、吐く息で止まり、吸う息で上体を起こす。
相手を敬い、相手と息を合わせることが礼の真髄であり、もてなしの極意である。

  志野流香道では上座(かみざ)引き足、下座蹴足(げざけあし)、必ず上座の足を引いて座るという決まりごとがある。ここにも呼吸がある。
お手前は流れるように粛々と進み、所作には一切の無駄がない。
香りを聞くということは集中力が必要である。
香元は灰に埋める炭団(たどん)の温度を掌で感じながら香をたき出し、静寂に香りだけがほのかに立ち上る。
客は香炉を手に取り、右手で覆って通常三息聞く。五息まで聞くことは許されているが、五息を聞くものは滅多にない。
一息一息はあらかじめ規則性が定められているように独特の“間合い”をもっている。
香を聞くには時間も重要なのだ。時間の経過で微妙に火合いが変わり、香りが変化するからである。
聞くという行為そのものが一期一会と言えるだろう。
吐くときは下座か懐に落とすように静かに息を吐く。
鼻というフィルターを通して香りが隅々にまで行き渡り身も心も清浄になる。その時、香りのもたらす想像力の世界に遊び、記憶を脳裡に留めるのである。

  左進右退ですう、はく、すう・・・。
礼に始まり礼に終わるという弓道で最初に見せられたのが、呼吸を意識した体配と呼ばれる作法であった。弓道場への入場から行射して退場するまでの作法は見とれるほどに美しく、審査に至っては体配が整わぬものはその後たとえ矢が中ろうとも見るに値しないとのことである。
弓矢を持つ動作は初めての体験にしても、これはまさしく小笠原流礼法であったので、私は単純に、多少の心得がある自分にはこの修練は有利であると直感していた。
しかし、武道はそれほど甘い世界ではなかった。
自分が意識して呼吸していても「呼吸をしていない。」と言われ続け、長い間腑に落ちないでいたのである。かつて礼法のお稽古でも「呼吸を意識していますか?」と常に問いかけられていた。

  的に向かい「射法八節」に則って足踏みをした際に
「押されたぐらいで簡単に倒れるようじゃダメだよ。臍下丹田(せいかたんでん)に力を入れて!」と生まれてこの方初めて“丹田”というものを意識させられた。(NO.94に続く

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