迷いの窓NO.86
音の迷宮
(後編)
2005.12.26
  かくいう私自身、子供の頃は耳が悪かった。
物心ついた頃から6〜7歳までの間に数知れぬほど急性中耳炎を繰り返したが、結局小学校入学直前にアデノイドを切除してから2回ほど患っただけで終息したように記憶している。
耳の異常に気がつくのはいつも夜である。耳の中がぽっぽ、ぽっぽと熱くなってきて、そのうち何とも不気味な耳鳴りに耐えられなくなってくる。
母の背に負ぶわれて耳鼻科へ行き、鼓膜切開というお決まりのコースだが、子供にとってはかなりの苦痛を伴う。ある時はホースのようなもので水を抜かれたこともあった。
そのため耳に水が入るのが恐怖となり、今でも泳ぎはできない。
母は私が難聴になるのではないかと随分心配したようだ。
毎年3月3日の耳の日には札幌市の検診に連れて行かれた。
母は始終離れたところからわざと「かおりの馬鹿」なんて囁いて母流の聴力チェックをしていた。
子供のことだからむきになって怒ると「あら、聞こえた?」と言いながらにこにこしていた。
冷たい風にさらされたり菌が入るといけないので、冬は必ず母の作ってくれた毛糸の耳かけをしていたものだ。

  聴力の弱い時期もあり、語学をあきらめたのもそれが理由だった。
小学校高学年の時、近所にフランス語教室が出来て母と一緒に見学に行った際に「耳の悪い人に語学は無理です。」と教師はにべもなかった。
あまりにきっぱりと言われたので、あっさりあきらめてしまった。
それほどに耳には自信のなかった私が今や過去は忘却の彼方となり、むしろ最近では「耳のいい方では?」と思っていたのである。
ところが、冒頭の「特別な耳」というキーワードに出会った時、あるひっかかりから<ひょっとしたら私には聞き取りにくい音があるのかもしれない。>という疑惑が突如頭をもたげてきた。
気になりだすとどうしても確かめずにいられなくなり、久しぶりに耳鼻咽喉科を受診した。
詳しい聴力検査の結果、思ったとおり低音域に聞き取りにくい音があることが判明。
神経は悪くないらしいが、両耳、特に左耳のバランスが悪いそうだ。
原因は幼い頃の中耳炎の後遺症か、鼻が悪いせいなのか、はっきりと診断がつかないとのことだった。何れにせよ自分の耳がことが解かって良かったと思った。
しかし、心のどこかに<自分は「特別の耳」を持っていなかった。>という落胆もあった。

  そんなことをぼんやりと考えながら、叔母の薬を取りにかかりつけの医院へ行くと、いつもパリッと清潔な制服を纏った専属の人がお掃除をしていた。年の頃は60歳を少し超えているだろうか?小柄で身が軽く上品な風情の女性で、スリッパの底まできれいに拭きあげるお掃除の仕方を見れば、お人柄が自ずと知れるようで清々しい気持ちになるのである。
患者さんへの気配りも行き届いており、挨拶や二言三言交わす会話も慈愛にあふれている。
その人を見ると自然に話しかけたくなってしまい、その日もトイレの前で雑巾を洗っている姿に後ろから声をかけた。
「いつもお元気そうですね。」と話しかけると、「ええ、元気だけが取り柄です。家中で一番元気なんですよ。口の悪い子供に“バカは風邪引かないんだ”って言われるんですよ。」いつもながらの静かで穏やかな語り口だ。しかし、次の瞬間、「でも、私右の耳が全く聞こえないんです。鼓膜がありませんから・・・。」咄嗟に「ご免なさい。後ろから声をかけてしまって・・・」
「あっ、いいんですよ。片方の耳が聞こえないから、音がしたらすぐに後ろを振り返ることにしているんです。」
私は打ちのめされていた。
その人はきっと耳が聞こえないことなど普段口にすることもないだろう。
そして、これは神仏が私に聞かせた声に違いないと思った。
<聞こえにくい音があるなんて、何と我が身の小さきことか!>誰でも色々なことを抱えて生きている。ただ、口にするかしないかの違いなのだ。
私の抱えた悩みなど、おもちゃのピアノの鍵盤が壊れたぐらいの取るに足りないことだった。
私は目を覚まされたような気がして、後姿に心の中で手を合わせた。

  ある聴覚障害者のHPを訪問した。
生まれながらに声や音のない世界で生きてきた人にとっては、聞こえないことは少しも不安ではないそうだ。
コミュニケーションの手段には「手話」「指文字」「口話」「筆談」があり、最も大切なのは言語としての「手話」だという。
しかし、一度音のある世界に産み落とされた人間がいきなり音を失ったら・・・それは奈落の底に突き落とされたような恐怖に違いない。
<聞こえなくなったら第二の言語を手に入れるだけ>などと悠長なことは言っていられないだろう。MDウォークマン等でボリュームを最大にして自分の世界に浸りながら歩いている若者たちの将来は果たして大丈夫だろうか?
今やこのような若者も耳の遠い老人も孤独な森の迷い子なのだ。

  もう特別な耳など望むまい。
鼓膜に集められた音がつち、きぬた、あぶみ骨(耳小骨)を振るわせ、迷宮のような蝸牛(ラビリンス)を通って伝わってくることは幸せなこと。
人の世は時には聞きたくない音や言葉もあるけれど、自然の音や人間が創り出した美しい音色、お気に入りの音楽に心を慰められることもある。
音の迷宮に迷いながら「耳」というものを考えたとき、「聞こえる」という日頃当然のように享受していることの中に、本当は大切なことがあるのだという確かな出口に辿り着いていた。
今なら如何なる人生の迷宮に迷い込もうとも、強く生きられるような気がしている。
命の根が少しだけ深くなったようだ。

  あと幾日もしないうちに除夜の鐘が耳に届くことだろう。
六根清浄、美しい響きに身も心も清められて新しき年を迎えられることに感謝しよう。
読者の皆様もどうか良い年をお迎え下さいますように。
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