迷いの窓NO.85
音の迷宮
(前編)
2005.12.26
  私の通う朗読教室に、その「読み」に独特の雰囲気を醸し出す男性の存在がある。
先生は「特別な耳を持った方かもしれません。」と言われる。
「特別な耳」という表現が私を捉えて離さなかった。
かのロシアの文豪ドストエフスキーは「声の人」「耳の人」と呼ばれ、その朗読は表情、抑揚、音の響き、強弱、緩急どれをとっても素晴らしかったそうだ。
彼が自作を朗読する会の人気は非常に高く、楽屋を出てくるとき若い女性たちが投げる花束が頭に当たって大変だったというエピソードが残っているそうだ。
周りの観客はみな涙ぐんで、ハンカチで目頭を押さえたという。
彼の作品は次から次へ言葉があふれ出て氾濫していく文体「饒舌体」「言葉のライブ」と言われ、それは自分でペンを走らせているときも、頭の中でしゃべっていることをただ書き写しているだけなのか?と思わせるほどだったと言うのだ。(五木寛之著『運命の足音』より)
<朗読を究めるためには「耳の人」か?>とひとりでに呟いていた。

  耳と言えば、ほとほと弱り果てていることがある。それは叔母の耳が遠くなったこと。
高齢者は耳遠を認めたくない人が多い。
老人性難聴は加齢とともに訪れるもので、恥ずかしいことでも何でもないと思うのだが、当の老人たちにとっては<「耳だけは悪くない」というプライドの最後の砦>とも言える頑なさがある。
それも耳が人間にとって最後の感覚器官と言われる所以であろうか?

叔母の場合も「私、耳が悪くなったわけじゃないけど・・・」と前置きされると、それでも「耳遠くなったよ。」とは言いにくい。
叔母の口から「あんたよほど耳がいいんだね。こんなに低くてテレビの音聞こえるの?」と言われることが度々ある。
最近では聞こえないことを棚に上げて「あんたの言ってること三言に一言はわからないことあるの。朗読習っているのにおかしいね。他の人にも何言ってるかわからないって言われないかい?」には参った。
私はすっかり「耳が良くて、カツゼツの悪い人間」ということになってしまっていた。
叔母は真剣に私のことを心配しているのだ。
近頃「なあに?」と聞き返すことが増えたし、聞き取れないのか「○○って言ったの?」ということが、全く違う音になっていて驚くことがある。似ている言葉ならまだ分かる。
母音さえも違うのだ。何とも頓珍漢な日常である。
しかも必ずと言っていいほど遠いところから話しかけてきて、私が正面を向けない状況の時に限って答えを求めるので、最低三度は繰り返すことになり、終いにありったけの声を振り絞ると「また怒っている。」と言うのだ。これには体力も気力も消耗してしまう。

  私には兄弟もなく、小さい時から大きな声を出す習慣がなかった。
朗読へ通い始めた目的には<通る声になりたい!>という切なる願いもあった。
同じ朗読教室に声の通る人が入ってこられ、その理由を伺ってみるとお父様の耳が遠かったので必然的に家族全員が大きな声で話すようになったという。今では内緒話が出来ないのが悩みとか?大きな声を出す家庭環境を与えられなかったことが今更ながら恨めしくさえあった。

  聞こえないということは取りも直さず「コミュニケーション障害」という重要な問題をはらんでいる。だから失礼な話だが、声の小さい人は好い印象を持たれない。
かつて世間を騒がせた豊田商事の営業マンはおそらく大きな声で老人たちに好感を持たれるように話し方を訓練されていたのだろう。

  高齢者にとって最も大切なコミュニケーションはお医者さまとの関係である。
最近はパソコンの画面を見ながら質問する先生が多い。
老人は聞こえていないが、病院では皆優等生である。
付き添う側は聞こえていないと察知すると、同時通訳をするか、後に要約して伝えることになる。
ある時、先生の説明を聞いて「有難うございます。お蔭様で・・・」などとニコニコしていたのに、後から「先生何て言ってたの?あの先生ぼそぼそと声が小さくてダメだね。通訳がいるよ。」には唖然とした。
「もう一度聞けばいいでしょう」と返すと「そんな失礼なことは言えない。」と言うのである。
これは何も家の叔母に限ったことではない。

  高齢者同士の会話が噛み合っていないのを耳にされたご経験は誰しもおありではないだろうか?傍で聞いていると、お互いに自分のことを一方的に喋っているように見えるのに、どういうわけか最後にはつじつまが合っている。
これが年の功という能力なのかと感心してしまう。
よく悪口は聞こえるというが、それは極端に声のトーンが変わるため「悪口」と判断する場合と、その音域が本当に聞こえる場合があるというので、心して口は慎むべきだ。

  家族にとって何度も聞いている話を始めた時には<ああっ、スイッチ入っちゃいました。>この話は何分と予想可能。いったん口火が切られてしまったら、決して途中で遮ってはいけない。
すべて吐き出させるのがベストである。
一言一句違えることなく話をするのには脱帽というより他はない!
時には今こちらが話したことを「誰かが?言ってたんだけどね・・・」と、さも以前に誰かから聞いたように創作すると言う驚異的なことも・・・。<それ、今私が・・・>と心の中にしまい込む。
同じような経験を持つ友人と「油断できないよね。あの老脚本家たちは・・・恐るべし!!」と共感して笑うこともある。

  介護保険の認定のために、市や施設から専門職員やケアーマネジャーさんがやって来たときなどはもっと凄い。色々な質問をされるが、出来ないことまで出来ると言うし、「耳が聞こえにくいことはないですか?」という問いには「全く問題ありません。耳はいい方です。」なんて答えるのだ。この時話すことはまともで、家族がいない場合、大抵「認知症」は見逃されてしまう。
<他人にはあくまで良く見られたい。年寄りとバカにされたくない。>という気持ちが介護から彼らを遠ざける。

  朗読教室全員参加の「朗読会」が迫った10月のある日、もちろん叔母は来てくれることになっていたのだが、果たして聞こえるかどうか不安であった。
マイクを使ったので結果的には杞憂に終わったが、その日を前に私は思い切って補聴器のお店に飛び込んで相談してみた。
集音器のような簡単なものでもあれば用意しておこうと思ったのだ。
ところが、集音器というのは全くの別物で、補聴器を販売するお店では扱っていないのだという。
「お年寄りは聞こえないことに不自由やストレスは感じないのでしょうか?」と質問してみた。
答えは意外なものだった。
「大事なことは誰でも面と向かって大きな声で話します。高齢者は聞こえないことは自分に関係ないことだと判断します。ですから傍で考えるほど不自由を感じていないのですよ。」
補聴器の調整というのは面倒なもの、というより根気がいるものらしい。
せっかく補聴器をつける気持ちになっても、必要のない音を拾いすぎて強いストレスを感じたり、身体の不調につながってあきらめてしまうケースも多いと聞く。
電話の音もドアホーンも聞こえない。人とのコミュニケーションもとれない。
こうして老人は無音という孤独の森深くに置き去りにされてしまうのだ。
自宅でできる聴力検査もあるそうだ。
「お耳の具合は如何ですか?というようにさりげなく来ていただけると助かるのですが・・・」と言い残し、「いつでも伺います。」というお店の方の名刺を頂戴して店を後にした。NO.86へ続く

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