迷いの窓NO.84
人生の首途
(後編)
2005.11.29
  私は「漢和辞典」が好きでよく引いているが、「漢字字典」も中々興味深いものである。
パソコンの便利さに甘んじて、度々変換の罠に嵌ってしまっている当今、漢字の成り立ちを再認識することが必要と考えている。
例えば「首」という漢字はぼうぼうに髪の毛がはえている頭を描いた象形文字。
元は首だけではではなく頭全体をさした。意味としては@くび、こうべ、かしらA第一位(首都、元首)Bいちばんはじめ(首尾)Cおもだった(首脳)D罪を申し出る(自首)E和歌を数える助数詞(百人一首)などがある。
しかし、慣用句としては「首を切る」「首が回らない」「首を洗う」などあまりよいイメージがないばかりか、「首級」という言葉に至っては中国の泰の法で敵の首を一つ討ち取れば、位一級を進める決まりあったことに由来するという。
晒し首で連想するのは京の三条河原。今では四季を問わずアベックが等間隔で河原に並んで座っている姿がすっかり風景に溶け込んでいるが、霊視能力のある人物からしてみればぞっとする絵かもしれない。また、首実検のために討ち取った御大将の首をはるばる首桶で運ぶこともあった。

  小笠原流礼法を習い始め、蓋の扱いやお酌の作法を学んでいた時のことである。
小笠原充子先生の前に置かれていたのはおひつ(飯櫃)。
「蓋でも酒器でも逆手で向こう側に手を翻すのはいけません。そのように扱うのは首桶だけです。」とおっしゃったのが妙に生々しく印象に残っている。
「首桶」というおぞましい単語と一緒に絶対に犯すべからざる「禁」ということを教え込まれたのだ。

  京都の西陣に住まいしていた頃、近くに「首途八幡宮」があり、大きな案内板が今出川通りに一際目立っていた。「首」という文字に一瞬ぎょっとしてしまう。
これは「かどで」と読み現在の「門出」と同じ出発、旅立ちの意味。
謂れは平安時代この地に金売り吉次の邸宅があり、鞍馬山を下りた遮那王(源九郎義経)が奥州平泉へ旅立つ際に道中の無事を祈願したと伝えられている。
この「首途」という文字、どこかで見たことがあると思ったら、松尾芭蕉の「おくのほそ道」の黒羽(くろばね)(現在地:栃木県那須郡黒羽町)にこんな句が見えた。

    夏山に足駄を拝む首途かな  (なつやまにあしだをおがむかどでかな)

  この句は修験道の開祖役行者(役小角)に縁の修験光明寺に招かれて行者堂を拝した折に詠んだもので、「足駄を拝む」には高下駄をはいて山野を歩き回ったという役行者の健脚にあやかりたいという願望が込められていたという。
伊賀上野の武士の出であった芭蕉は若者顔負けの速歩で壮大なスケールの旅程をこなしたことから、後年<忍者だったのでは?>という憶測もされたが、実は激痛を伴う胆石症や痔疾などの持病も持っており、堅固な身体ではなかったそうである。
芭蕉を漂泊の旅に駆り立てたものは俳諧への一途な求道精神、その気力ゆえに続けることができたのであろう。
凡人はすぐに<あの人には健康体があったから、あるいは人並みはずれた能力が備わっていたからできたのだ。>などと思いがちだが、実はハンデを背負いながらも事を成し遂げている人が意外に多い。そういう人は決して人には苦労を見せないし、簡単に愚痴や弱音を吐かないものではなかろうか?
<嗚呼、首が肩が・・・とヘタっている自分が情けなや!>

  足駄を拝むなんて一見ちゃめっけのある表現だが、その姿には並々ならぬ芭蕉の祈りが込められていたに違いない。
奇しくもこの黒羽にはバックナンバーの「時代劇の旅」にも書いた那須与一縁の八幡宮があり、芭蕉も深い感慨を抱きながら通り過ぎたばかりであった。
旅に出てすでに久しい芭蕉があえてこの句に「首途」という言葉を用いたところに「ここから本当の目的地である奥州路、その旅が始まるのだ。」という新たな思いが伝わってくる。
与一といい、奥州平泉に新天地を求めた義経といい、求める道は違ってもこの「首途」の文字に武士(もののふ)の魂を感じ、武道に足に踏み入れたばかりの私の心の中に強く刻みつけられることになった。

  さて、ギックリ首警報とばかり勝手に思い込み、負担のかかるパソコンの文字入力などは極力控えてきたのに、痛めていたのは「肩」だった。いわゆる五十肩の前兆らしい。
弓のオーバートレーニングが主な原因と整形外科では診断されたが、長時間のパソコン、展示会のために水引細工の製作に根を詰めたことも拍車をかけたのかもしれない。
今回は鶴を手がけていたが、作者に似るのか、何度作っても首が長くなってしまうのには参った!
人間は往々にしてギックリ腰や五十肩という名称に惑わされて、何でもつい歳のせいにしてしまう。
サムエル・ウルマン原作詩、新井満自由訳『青春とは』によれば、
「歳を重ねただけで人は老いない。夢を失った時はじめて老いる。」のだそうだ。
夢さえ失わなければ、人はいつどこからでも「人生の首途」が可能というわけか!

  「迷いの窓」の更新まで随分日を重ねてしまった。
もしもご訪問の皆様に首を長くしてお待ちいただいていたとしたら、筆者としてこれ以上の喜びはない。
ご紹介した病気は気が付いた時にはもう遅い。
皆様も明日への新たな「首途」のために、突然襲ってくる首、肩、腰の痛みには日頃から十分お気をつけ下さいますよう。
本日は読者の皆様のご健勝をお祈り申し上げながら、()つの花舞う北国の窓を静かに閉じることに致し候。


※六つの花・・・雪の異称。六角形の雪の結晶を花にたとえた美しい表現。
   六花(りっか、ろっか)とも呼ばれる。
※参考文献:『おくのほそ道』飯田満寿男著(旺文社)
                  『おくのほそ道』(角川書店編)

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