迷いの窓NO.82
砧の音(後編)
2005.10.6
  「(きぬた)」と聞いて私が最も忘れ難いのは女流画家上村松園が描いた「砧」のことだ。
日本画壇で美人画を究めた松園さんが、充実期に能を題材にした最高傑作である。
「砧」は能楽の中でも最も位の高いものと言われ、演じられることが少ないので、お能の好きな私も残念ながらまだ鑑賞したことがない。

<訴訟の爲京へ上ったまま帰らぬ九州芦屋の豪族の男が、無事を知らせる文を妻へ送る。すでに3年の月日が経っていた。手紙を携えた使いのものに会うと妻はいっそう寂しさが募り、中国の故事に―「夫を想い砧を打つと万里の果ての夫のもとへ届いた」ことになぞられて、夫への思いを込めて砧を打つ。しかし、想いはいつしか邪推を生み、恨みと化してそのまま病で死んでしまう。故郷に戻った戻った夫が梓弓で妻の霊を呼び出してみると、そこに現れたのは夫を想うあまり成仏できない妻の霊であった。夫は法華経の功徳を以って成仏させる。>という内容である。

  上述の絵には背景は描かれていない。
妻女の他には、ほのかに灯る燭台とこれから打たれようとする砧がいかにも想い惑う妻の佇まいと相まって、憂いを含んだ表情を際立たせている。
着物柄に描かれた落ち葉、中には朽ち葉も見えるその着物の地色が何とも品のよい風情なのだ。
能を写しながら顔は『草紙洗小町』のように能面のようではなく、耳たぶや手足の指先のほんのりと紅色に染まったところは市井の女性を描くいつもの松園さんらしい。
松園さんは「女性は美しければよいという気持ちで描いたことは一度もない。一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香り高い数珠のような絵こそ念願とするところ。その絵を見ていると邪念が起こらない、またよこしまな心を持った人でもその絵に感化されて邪念が清められる、といった絵こそ私の願うところのものである。」と『青眉抄』に語っている。
この一枚の絵は能の持つ幽玄の世界を余すところなく描くにとどまらず、松園さんの精神そのもの、「真善美の極致に達した美人画」が、私の心の額縁に「砧」という言霊と一緒にはめ込まれてしまったような思いがする。
音も香りも「聞く」もの。
実際の音は耳にしたことがなくても、「砧」は香りのメッセージとなって私の中に確かに刻まれているのである。

  さて、今日のあなたはどのような寝覚めであったろうか?
私はと言えば・・・、暴走族のバイクの騒音ですっかり眠りを妨げられ「宵の寝覚」であった。
バイクで思い出したが、北海道では6〜9月に多くのライダーが上陸する。
「ヴォン〜ヴォン〜」という排気音がミツバチの羽音に似ていることから、ツーリングにやってくる彼らのことをいつしか「ミツバチ族」と呼ぶようになった。
まだ「ミツバチ」ならかわいいものだ。
こんな社会の音までも自然の音に喩えてしまう日本人の耳。
虫の音はかき消されたが、現代のミツバチの音と思えば寝不足の怒りモードも幾分和らぐような気がした。人間の命までも奪うスズメバチの羽音にならないことを願いながら・・・。

  昔の人は耳がよかったと言う人がいる。騒音や雑音がなかったから、本の頁をめくる音、墨を磨る音、葉ずれの音・・・ほんの僅かな音にも情緒や人生の機微を感じ取ることができたのだろう。
また自然の音を大切にするばかりではなく、癒しの響きとして再認識されている水琴窟や能舞台の音の仕組みのように、美しい共鳴音を楽しみ、芸能にまで高める感性と知恵をも持ち合わせていたのだ。
考えてみれば、水琴窟も能舞台も“瓶(かめ)”を使った装置という共通点がある。
しかしながら、前者は瓶の中で反響させ、後者は瓶の振動で吸音させることによって独特の音の世界を創造している。そしてどちらも地中に埋められていて姿が見えないところに、ゆかしき日本の心を感じるのである。

  失われた美しい音、郷愁や哀愁を誘う調べ、智慧の響き、耳小骨の「きぬた」や「つち」は祖先の遠い記憶を忘れないように、私たちの耳にそのかたちを留めているのではなかろうか?
時にはテレビの音を消して、耳の中のかすかな記憶を頼りに、いにしえの音を取り戻してみようではないか?!

  もしかしたら、秋の夜のしじまから妻を恋うさを鹿の声や、夫を想う砧の音があなたの耳にも届くかもしれない。

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