迷いの窓NO.81
砧の音(前編)
2005.10.6
  秋の夜長、読者の皆様はどのようにお過しだろうか?
北国では夜毎庭先で演奏会を楽しませてくれた虫たちの声も、このところの冷え込みのせいか心細げになってきた。
 
  香道には秋の夜長を楽しむ「寝覚香」という組香がある。
組香とは平たく言えば、香当てゲームのようなもの。
春夏秋冬の季節に分かれているものや通年行う「雑」に分類されるものがある。
「寝覚香」は秋に聞こえる音を香りに見立てた風流な組香である。
(きぬた)、鹿、虫という3種のお香を三包ずつ用意して、それぞれ一包を試みとして聞く。
残り六包の内三包をランダムに捨てて、聞いていない「枕」というお香を打ち混ぜ四包を出香する。枕は聞いていないから、他の3つの香りをしっかり記憶して聞きわけるのである。
答えは記紙に例えば、砧、虫、枕、鹿のように記す。

  主題が秋の眠りの状態なので、各自の聞き当てた数を寝覚めた時の状態で記録するのがこの組香の面白いところである。
全て当たれば・・・「寝覚」十分睡眠が取れた状態
3つ当たり・・・・・・「暁の寝覚」少し睡眠がもの足りない
2つ当たり・・・・・・「旅の寝覚」枕が変わって寝付かれない
1つ当たり・・・・・・「宵の寝覚」まどろんだがすぐ目が覚めてしまう
無当たり・・・・・・・「夢」かうつつか判らない、と以上のように記録される。
  さてこの3つの秋の音だが、虫の(すだ)く声は今でも聞くことができる。
文部省唱歌の「虫の声」の一番手は「ちんちろ ちんちろ ちんちろりん」と金の琵琶を奏でる松虫、別名「金琵琶」。
「リン」を二振り、三振り・・・あれは月の鈴の音か、はたまた金の鐘を撞く音か?
月鈴子(げつれいし)」「金鐘児(きんしょうじ)」とは鈴虫の異称である。
平安時代には松虫と鈴虫が今とは逆に呼ばれ、今の蟋蟀(コオロギ)をきりぎりすと呼んでいたそうな。蟋蟀のことは虫の音が「つづれさせ」と聴こえたことから、この虫が鳴くと冬の衣服の繕いを始め、きりぎりすはその音色が織機のように聞こえることから「絡線虫(ハタオリ)」、「すいちょん、すいと」馬追(ウマオイ)の声は紡ぎ車を巻くが如しと喩えられた。
音に対する先人達の繊細さと想像力の豊かさには敬服してしまう。
この虫の音だが、西欧人は右脳(音楽脳)で騒音として聞き、日本語圏で育った人は左脳(言語脳)で声(言葉)として聞くという。
コノハズクの声を「ブッポウソウ(仏法僧)」と聞いた古人の耳は、蟋蟀の声を「つづれさせ」と捉えたのだ。

  次に遠くで鳴く鹿の声は聞こえなくても想像はできる。
日本で鹿と言えば、大概の人は奈良の鹿を思い浮かべるのではないだろうか?
『春日野の鹿と諸寺の鐘』は環境庁の「日本の音風景百選」にも数えられている。
日本人と鹿の関係は古く、縄文や弥生時代の遺跡からも鹿の骨が発掘されている。
牛、馬、ヘビ、鳥という動物が神聖視されてきたように、奈良の鹿は春日大社の神様の使いとして大切に保護されてきた歴史がある。
万葉集の中にも鹿を詠んだ歌が60首以上あり、そのほとんどは鹿の鳴く声を和歌にしたものである。
特に「さを鹿」という言葉で妻を恋うる歌が多い。発情期の男鹿の鳴き声が古人には何とも切なく聞こえたのかもしれない。

  現代では耳にすることができなくなったの音が「砧」である。
砧は麻、楮(こうぞ)、葛などで織った布を槌で打って艶を出したり、やわらかくする石や木の台のこと。打つ行為そのものを指すこともある。単に藁を打つことも砧打つと言い古来から秋の季語となっている。強く打ったのでは布地を傷めてしまうので大きな音ではない。
トントンと優しく布を打つ音は静寂の中で響き、秋の夜を一層物悲しいものにしたようである。
漢詩にも砧は秋の夜の情景として登場する。
中国で詩仙と呼ばれた李白の「長安一片月  萬戸擣衣聲」で始まる『子夜呉歌』や白居易(白楽天)の『聞夜砧』の中に、何れも夫を想いながら夜なべをする妻の姿が詠い上げられている。

  「きぬた」という音とその形ですぐさま脳裡をかすめるのは、人間の中耳にある鼓膜と連鎖したつち(槌)、きぬた(砧)、あぶみ(鐙)という3つの耳小骨のこと。
私たちの耳の中では音を伝えるために休むことなく槌が砧を打っている訳だ。
この耳小骨、爬虫類や鳥類には「あぶみ骨」しかなく、爬虫類の関節は音の伝導という機能にすぐれていると考えれてきた。
「つち骨」「きぬた骨」は哺乳類のみが持っている耳の骨で、伝導性のいい顎の骨が進化したものであるというのは摩訶不思議なことである。(NO.82へ続く

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