迷いの窓NO.76
介護の部屋13
2005.8.15
  手術開始後、10分と経たないうちに私は中に呼ばれた。
叔母の周りには先生以外に2人の看護師さんと助手の先生がいらした。
先生が冷静に説明を始められたので、私は自分の呼ばれた理由がすぐには解からなかったものの、雰囲気は何か異常なものを感じた。
「姪御さん、どうぞ傍へ」と促されて叔母の名前を呼ぶと、興奮して意味不明のことを口走っていた。状況を把握したのはその時だ!

  先生の説明はこうだった。「埋もれていて痛みの原因になっていた歯はきれいに取り除けました。朦朧とする意識の中で人の顔がいっぱい見えたので少し興奮しておられるようです。醒めるまで待ちましょう。しっかりした方だから、逆に分からなくなることに不安を感じるようです。意識がはっきりした状態で痛みを確認しながらやってみましょう。予定通りにはいかないかもしれませんが、やれるところまで。」<嫌な予感が的中してしまったな。>と一瞬思ったが、もうお任せするしかなかった。

  叔母の戯言の相手をしていた看護師さんは「仕方ないわね〜。」という表情であった。
私も叔母を落ち着かせようとしたが、ひたすら喋り続けているので、ほとんど聞き役に徹していた。  こんな時、説得は逆効果だから・・・。
しばらくすると意識が鮮明になってきて、手術は再開された。
私は叔母の声が聞き取れるところで控えていた。
先生と叔母のやり取りが聞こえてくる。どうやら痛みを確認しているようだ。
叔母の受け答えははっきりしていた。
痛みに敏感な私が8本の抜歯などと言われたら、絶対に分からないうちに終わることを望むだろう。  手術前はあんなに恐怖心を露にしていたのに、叔母は怖くないのだろうか?
<生きる為には食べねばならぬ。それには歯を治さなければ。>生きることへの強い意志が働いているようであった。
「もう落ち着いてきて大丈夫のようですから。」と言う声にはっとして、私は再び待合室へ戻った。

  気配がして終わったことが確認できたとき、2時間が経過していた。
先生から次のようなお話があった。
「予定通り終わりました。やはりしっかりしていらっしゃる方です。分からなくなることが恐怖だったのですね。一時はどうなることかと思いましたが、私の長い経験上でもこれだけはっきりした意識の下で、しかもこんなに沢山の本数を一度に抜いた手術は初めてです。ご立派でした!」
“ご立派”という言葉の響きが叔母の生きざまをそのまま物語っているように思えた。

  病院の食事も嫌いな重湯以外は口にしていた。
午後7時半、先生が2人の研修医と思しき人を伴って回診。
その頃には痛みもなく、叔母は元気だった。
くれぐれもトイレのことだけ念押しして私は病院を後にした。

  翌朝、朝食の時間を目指して病院へ。「おはよう」と入っていくと、運ばれたお膳に手もつけず、パジャマから洋服に着替えて帰り支度をしているのには驚いた。
よほど家へ帰りたかったのだろう。体調もよさそうである。
8時半の診察の前に先生がお一人で様子を覗きにいらした。
先生も安心されたようで「予定通り退院できそうですね。」とにっこりされた。
叔母は夜も朝も病室に足を運んで下さった先生に<ありがたい>と手を合わせていた。
本当に先生には助けられた。腕も素晴らしいが、何と言ってもさりげない心のケアが光る。
叔母と私にとって、神様、仏様のような存在となった。

  退院した叔母は抜糸と検査の結果を聞くために、その後二度診察を受けた。
先生の“おまじない”が効いたのか、抜糸も棘のよう飛び出した骨を取り除いた時も、ほとんど痛みは感じなかったらしい。見事なお手並み、「おまじないをしましょう。」と薬を塗られた先生の優しさに助手の若い先生も感心していた。
今は、かかりつけの歯科医院で義歯を作っている。今月末には完成の予定だ。
しばらくは不自由な状態が続くだろうが、全く痛みはなくなった。
叔母は元々お粥など軟らかいものが嫌いで、函館弁で「しないもの」(噛み切れないような)イカとかタコが大好きである。
しかし、流石に下の前歯が4本では食べられないので、軟らかくても好みそうなものや、細かく刻んで調理するなどして気をつけている。

  人間禁じられると余計食べたくなるもので、函館では「真イカ」のシーズン、毎日のように「今日お天気がいいからイカ捕れてるね。市場で見なかったかい?」とイカ食べたいモードを目いっぱいアピールする。
「今、イカ刺しダメよ。噛めないでしょ!入れ歯ができるまでの辛抱ね。」と、いつの間にやら駄駄っ子に言い聞かせる口うるさい母親のようになっていた。
だが、すぐに可哀相になって、お造りになって売っているイカなら多少は軟らかくなっているだろうと食卓に並べ、<丸呑みになるかもしれないけど、好きなものを食べさせてあげよう。>と思うようになった。
叔母は「イカはいつ食べても美味しいね。毎日でも飽きないよ!」とご機嫌である。
満面の笑みを見ていると、私も幸せな気持ちになった。

  戦争は遠い昔のことではない。
叔母に尋ねてみた。「叔母ちゃんの世代の人はあの戦争をどう思っているのかな?」
「難しいことはわからないけどね・・・、戦争はお互いに悲しい。何れにしても悲劇しか生まないよ。」  ビルマのラングーンで戦死した兄のことや戦時中の母親の寂しい葬儀のことを思い浮かべたのか?
それとも遺骨係として数知れぬご遺体の一部と接してきた時代を遡ったのであろうか?
視線は彼方を彷徨し、ポツリと呟くように言った。
たとえどんなに認知症が進んでも、「悲しみの風景」は人の心から消えることはないのだ。
一昨日、小野田少尉の実録をドラマ化した『遅すぎた帰還』を観た時も、絞れるほど涙が出た。

  戦争を体験した確かな生き証人を目の前にしながら、戦争が決して終わっていないことを確信すると同時に<終わらせてはいけないのだ!>という思いを強くした。
<同じ過ちが繰り返されてはならない。過去に目をそむけることなく、人間のエゴが再び悲劇を生まぬように今を生きる私たち一人一人が、「平和」というバトンを次世代へ渡す使命を担っているのだ。>と終戦記念日の今日8月15日、改めて心に刻みつけ、あまたの尊い悲しみの御魂に誓うのだった。

  身心に染み入るような蝉時雨の中、60年目の叔母の暑い夏が過ぎ行かんとす。
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