迷いの窓NO.74
介護の部屋11
2005.8.15
  この「介護の部屋」は言わば私と叔母との生活を綴った日記のようなもの。
もちろん、文字に表せないこともある。
しかし、書くことによって自分の心の中を整理することができ、明日からの介護生活の力になっていることだけは間違いない。
また、読者が将来介護する側のお立場になられ、問題に直面した時、何かのお役に立てば幸甚と思う次第である。

  バックナンバーをご覧になった方から「一年前のことなのにどきどきしました。」という感想を寄せていただいたことがある。
過日こんな話もあった。函館で妹のような存在の方のご友人も『迷いの窓』をご訪問いただいているそうだが、「介護の部屋読んだの。大変みたいだけど大丈夫かしら?」と見ず知らずの私のことを心配するメールが届いたというのである。
日頃顔を合わせている彼女は「そんな様子はなかったけど・・・」と返信したものの、問題の『窓』は読んでいなかったので、慌ててインターネットカフェで内容をチェックしたというのだ。
このように共感、共苦して下さる読者の存在は有り難いものだとつくづく思う。

  久々に「介護の部屋」を開けることにしよう。
実は前々号に書いた私の夏風邪から我が家は大変なことになっていたのだが・・・。

  叔母は大正7年未熟児で生まれ、お産婆さんに「可哀相だがこの子は3日ともつまい。短い命だからなるべく泣かさないように。」と言われた人であった。
父親は友人の看病をして逆に重い病に伏し、38歳の若さで他界した。
そのショックで叔母を身ごもっていた母親(私の曽祖母)は8ヶ月で産気づいたのだ。
今のように保育器などない時代のこと、叔母が生きられる可能性は限りなく心細いものであっただろう。叔母は口癖のように言う。
「八月子(やつきご)で生まれ、2日ともたないと言われた私が兄弟の中で一番長生きするなんて!」と。

  小さな嬰児はすくすくと育った。足も速く、運動会ではいつも一等賞をとってご近所から羨ましがられたそうだ。道がアスファルトになった現在でも函館から車で小1時間はかかるような親戚の家へ、でこぼこ道を自転車の荷台にお芋や南瓜などの野菜をくくりつけて往復したという話を聞いた。
その健脚ぶりはいかに丈夫に育ったかを証明するに十分だった。
必死の思いで父親の忘れ形見を守り育てた母親も戦時中病気で亡くなったそうだ。
昭和20年7月終戦直前の厳しい折、通夜に明かりを灯すことも禁じられ、葬儀は3日以内で済ませるように通達されて、慌しく埋葬しなければならなかった悲しい時代のことは今も鮮明に叔母の記憶に焼きついているという。

   戦後、今は球場や弓道場のある函館の千代ヶ岱というところに、厚生省の引揚援護局が設置され、軍人、軍属、一般邦人の引揚業務が開始された。廃局までの4年余叔母はそこへ勤めたそうである。
当時、博多、佐世保、舞鶴、浦賀等も引揚港に指定されていたが、函館はソ連に近かった為、主に樺太からの引揚者が多かったようだ。
その中にはシベリアで抑留された人々も含まれていた。
着の身着のまま祖国に帰ることだけを夢に見ながら、船で辿り着いた人々。
栄養状態や衛生状態も悪く、途中で息絶えた人もあったろう。
荼毘に付すこともできず、手足の指など遺体の一部を持ち帰る人もいて、特に手の小指が多かったという。
遺骨係だった叔母は、バイクにつけたサイドカーに乗り、必死の思いで持ち帰られたであろうご遺体の一部、指の一本一本を船見町にある火葬場まで運んだそうだ。
荼毘に付された後、家族の元へ帰るご遺骨もあったが、身元の判らないご遺骨は大切に保管され、懇ろに供養されたという。

  私の携わった葬儀の仕事と似ていると、不思議な思いに捉われた。
叔母にとっては生涯忘れられない仕事であり、「母親が信心深く仏事に熱心で、幼い頃から色々なことを教えられてきたので、こういう仕事に携わることになったのも因縁と思い、またそうであったからこそ仏様に守られ、生かされてきたような気がする。」と回顧する。
今、叔母の唯一の親友はこの引揚援護局で共に仕事をしてきた人である。
二人は時折、私の前で当時の思い出話をする。

引揚船が入港すると、そこにはレコードから音楽が流れ、タンゴやワルツがかかると人々の間から一斉に歓声が沸きあがって、感涙して聴き入る光景は感動的で忘れ難いという。
叔母と暮らして貴重な体験談に耳を傾けるうちに、私は自分が何と恵まれた時代に生まれたのだろうと感慨を新たにする。(NO.75へ続く
 
※引揚援護局時代の話については、叔母とその友人の60年前の記憶を聞き書きしたものである。手元に資料も少なく、実際とは異なる点があるかもしれないが何卒ご海容願いたい。
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