迷いの窓NO.60
微妙(みみょう)の声
(前編)
2005.4.28
  読者の皆さんは驚かれる?かもしれないが、私が今ハマっているもの、それは食玩!
食玩とは食料品(主にお菓子)売場で売られているお菓子付き玩具のこと。
もちろん目的は菓子ではなくおまけ(フィギュア)。
お菓子売場に全く縁のない私であるから、カバヤ食品さんの「密教曼陀羅」なる仏像のフィギュアが存在するなどとは知る由もなかった。

  何気なくテレビを観ていたある日のこと、モデルでエッセイストのはなさんの趣味が仏像鑑賞だったことを知り、その番組の中で紹介されていたのが上述のフィギュアだったのである。
200円の箱の中にチョコボール4ケ入った袋とお目当ての仏像が解説カード付きで入っている。
種類は10種類。
当然、大日如来、孔雀明王、愛染明王は含まれている。他には阿修羅と韋駄天。
それぞれ豪華彩色版とノーマル彩色版があるから10種類と言う訳だ。
これ以外にシークレットとして、そのシルエットから千手観音と思しき豪華彩色版とノーマルがあるらしい。

この通称「シクレ」はこの業界のお決まりらしく、流通量が極端に少ない爲、マニアの間ではプレミア品となる。
ネットでその手のサイトを調べてみると、何処そこで一体3000円で販売されていたと情報が寄せられていた。<「シクレ」あきらめた。><新薬師寺の十二神将や釈迦三尊像作ってくれ〜。>などの掲示板のやり取りも中々興味深い。
最初に買った箱に「千手」が入っていたというラッキーな人もいるが、私はくじ運が悪いから無理だろうと思いながらも、近所のスーパーへ行くと静かに箱を振って重さを確認しながら必ず1個か2個はかごに入れてしまう。
経験してみて分かったが、食玩の醍醐味はチマチマと毎日1個か2個<今日はこれをゲットしよう!>と気合を入れて、思い通りのものが姿を現した時の快感にあるようだ。

  さて、そんな楽しみ方をするうち、もちろん「千手観音」は影も形もないが、10体のうちのとうとう最後の一体ノーマルの「孔雀明王」を手にすることができた。
今年は酉年。そう言えば今年の年賀状に使ったのも孔雀明王像であった。

  日本では珍しい孔雀も国鳥とするインドでは沢山生息している。
孔雀は毒蛇や害虫を食べることから、人々の災難や苦痛を取り去ると信じられてきた。
また、雨乞いの神様としても信仰されている。
明王部の中でも最も人気の高いのが孔雀の背の上の蓮台に座した「孔雀明王」なのである。
不動明王や愛染明王など火焔を背負って憤怒相をしている明王の中で、唯一憤怒相をしていない孔雀明王は、知的で清々しいお姿。見方によっては厳しい表情にも受け取れるが、菩薩のような優しさを秘めている。
4本の手に戴かれる持物とは、魔を払い無病息災のシンボルである吉祥果(ざくろ)、障害を追い払う孔雀の尾羽、気力を増す倶縁果(ぐえんか)(柑橘類)と未敷(みふ)蓮華である。(明王画像の中には、悲心を示す開敷(かいふ)蓮華の場合もある。)

  孔雀と言えば、私の崇拝する類稀な審美眼と研ぎ澄まされた美意識、日本の伝統文化への深い造詣の持ち主であり、生き方を学びたい作家、故白洲正子さんの作品の中に「孔雀」がある。
読む前に私は確信していた。この作品の中には必ず孔雀明王のことが出てくるであろうと。
随筆の内容は「紳士道を貫いた昭和の快男児」と呼ばれた夫、白洲次郎氏が亡くなる4〜5日前に、白洲家の庭に孔雀が飛来してきて、百か日の頃来た時と同じように忽然と姿を消してしまったというものである。
その作品に出会ってしばらく後、正子女史が<日頃美意識が高く、苦労は人に見せず、常に格好をつける夫次郎氏を称して「孔雀のような男」>と表現していたことを知った。
朗読の勉強を始めて2度目の録音に選んだのがこの「孔雀」であった。
今ではほとんど諳んじているほどである。それほど私は彼女の文章に魅せられ、物の見方考え方、生き方の全てに惚れ込んでいる。
自分の足で歴史を探訪して史実を読み解いていく憧れの方は、フィギュアからは想像できないが「韋駄天のお正」という異名でも知られている。
「戒名不用、葬式無用」という二行の遺言を残し(葬儀者にとってはちょっと困った御仁?だが)昭和という時代を孔雀のような矜持の高さで、悠々と舞いながらその存在を世に知らしめた白洲次郎氏。
妻正子女史の「孔雀」はそんな夫へのレクイエムであったかと改めて納得し、この作品がますます好きになってしまった。
そして、一瞬にして私の心を虜にした高野山に所蔵される快慶の孔雀明王像と一体となって、脳裡の奥底に記憶されることになったのである。

  「阿弥陀経」の中で、孔雀は極楽浄土の六霊鳥の一つに数えられている。
極楽仏国土では、妙なる音楽が奏でられ、六鳥と呼ばれる色とりどりの珍しい鳥の鳴き声が聞こえるという。
  六種類の鳥とは、白鵠(びゃっこう)、孔雀、鸚鵡(おうむ舎利(しゃり)迦稜頻伽(かりょうびんが)共命(ぐみょう)の鳥である。
白鵠は白鳥ともガチョウ(天鵞)とも鶴ともいう。
華やかな姿の孔雀同様、その純白の美しさで浄土を荘厳する。
舎利は九官鳥の一種あるいは鷺と言われ、鸚鵡と共に人間の言葉を話し、仏法を奏でて浄土を荘厳する。

迦稜頻伽と共命の鳥は想像上の鳥、所謂「化鳥(けちょう)」である。
迦稜頻伽は藪鶯に似た鳴き声の美しい鳥で、卵の頃から鳴くといわれ、妙音鳥とも訳される。
仏の説法の流麗さを「迦稜頻伽の如し」と喩えられることもある。
共命の鳥は一つの胴体に2つの頭を持つ双頭の鳥で、男女の人面を持ち、片方が死ぬと一方も死ぬという。つまりお互いが生かし生かされている「いのちのつながり」を体現することで御仏のこころを表している。
極楽浄土の六霊鳥たちは阿弥陀仏が仏の教えを示す為に不可思議の力を以って、仮に作り出したものと釈迦は説く。(NO.61に続く
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