迷いの窓NO6
作法の心
2003.9.27
 葬儀社在職中のある日、私は美しいお辞儀や立ち居振舞いを学びたい、寺院の接待に粗相のないようにしたいという単純な思いから、「小笠原流礼法」の門をたたくことになった。
これがとんでもない世界に足を踏み入れたことに気付くのに、時間はかからなかった。銀閣寺形手水鉢
教場で繰り広げられていたのは、紛れもなく「メントレ」ならぬ「筋トレ」(筋力トレーニング)であったからだ。

基本は立礼、座礼。 ちなみに、座礼には九品礼(くひんれい)と呼ばれる9つの礼がある。
主な礼は指建礼(しけんれい)折手礼(せっしゅれい)拓手礼(たくしゅれい)双手礼(そうしゅれい)合手礼(ごうしゅれい)で、合手礼は合掌礼(仏拝)に通じる。
そして「歩き十年」と言われる恐怖の(初心者にはまるで糸で頭から吊り下げられたような)歩き方を、「氷の上を滑るが如く」なるまで修練を積まねばならない。
2時間のお稽古を終えると、筋肉の使い痛みで、もはや自分の足ではない。
しかし、宗家の「ご自分の足でしょう?」「呼吸は意識していますか?」という厳しい手ほどきと叱咤激励のもとにお稽古が進んでいくと、「目からウロコ」だらけであった。

すべてが身体的機能に添う形で、理に叶っており、一切の無駄がない。
背筋を真っ直ぐ伸ばし、必要最低限の筋肉を働かせ、内臓を圧迫せず、正しい呼吸法を行う動作は実に美しい。
しかし、この健全な肉体を育む美しい姿勢を養うには、前述のような日々の修練が必要なのである。
人間のコミュニケーションの手段である言語と動作ではあるが、人を敬う心と慈しむ心がなければ礼にあらず。 常に相手の立場を考え自我を抑えることが肝要と戒められた。

昨今、サービス業をターゲットにマナーや言葉使いなどの社員研修を提供する会社が増えているが、ビジネスライクに「初めに型ありき」というところが少なくないように見受けられる。
勿論「型」から入っていくという手法もあるが、「型」だけを駆使してみても気持ちは伝わらない。
例えば客人を見送る時に、「お気をつけて」という気持ちがあれば、姿が見えなくなるまでお見送りするのが自然である。
訪問者は見送られていることに気付いて「ありがとうございます」という気持ちで礼を送る。
言葉を交わさなくても、お互いの息が合い、心が響きあう、後には清々しい心持ちが残る。
誰しもこのような経験をお持ちではないだろうか?
「心」と「形」が相まって、相手に対する心を残すこと。
そこに「作法の心」が集約されているように思う。

鎌倉時代には確立されていた小笠原流礼法ではあるが、生活様式や環境の変化とともに、その時、所、人に合わせて常に新しい方向づけがなされてきた。
時代がどのように変わろうとも、人を敬い慈しむ心は人間が生きる上での基本中の基本である。
しかしながら、躾(しつけ)という美しい言葉さえ死語となりつつある今、公共の交通機関内で携帯電話の鳴り止む時代は果たしてやってくるのであろうか?
礼法という奥深い世界を知れば知るほど、マナーの低下した現代に対する心の中の警鐘は鳴り止まない。

礼法の修行が私にとって生涯の課題となることは間違いないが、この世界を知ったことで心の財産を得た思いがする。
実践することは難しいが、折に触れて意識することで、以前より人に優しくなれたことは事実である。

☆「小笠原礼法」の歴史等詳細についてお知りになりたい方は、下記HPをご訪問下さい。
     http://www.ogasawara-ryu.gr.jp
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