迷いの窓NO.59
雑草(くさ)の名前
2005.4.6
  雪の多かった函館にもようやく春の訪れが感じられるようになった。
久しぶりになつかしい土の匂いを嗅いだような気がした。
すでに庭の水仙も芽を吹き、陽光に向かって日に日に青い葉を伸ばしている。
雑草も長い冬眠から目覚めたようにしっかりと地に根を張り始めた。
黒い土もまもなく雑草たちに凌駕されるであろう。

  よく「道端の名も無き草」という言葉を口にするが、植物に造詣の深かった昭和天皇が、「名も無き草などありません。名前を知らないだけです。」と仰ったという話を聞いたことがある。
なるほど、草も人も同じ。名前のない人がいないのと同じだ。
雑草の名前と言えば、宵待ち草の歌にも謳われたオオマツヨイグサ、ままごとに使ったアカマンマ、思わず悪戯してみたくなるようなエノコログサ(通称ネコジャラシ)等、子供の頃の記憶を辿ってみるが、はっきりと名前を覚えていない雑草が多いことに驚く。

  雑草中の雑草と言われるエノコログサ(エノコグサ)と豊臣秀吉の意外な関係を先頃知ることとなった。
表千家・堀内長生庵前主、堀内宗心宗匠の「宗心茶話」に興味深いお話を見つけたからである。
「秀吉と茶」と言えば、大阪城天守閣の黄金の茶室が有名であり、一説によればこれを契機として千利休との関係に亀裂が生じたとも伝えられている。
秀吉はどの戦場にも利休(宗易)を伴い、側近として重く用いてきた。
<『宗湛(そうたん)日記』によれば、全国制覇の凱旋茶会に使われた花が「エノコグサ」だったというのである。それがいかにも太閤さんらしく、利休さんの「花は野にあるように」というのも野の人から天下人となった太閤さんに沿った言葉と考えられている。>といわれる。
後に秀吉によって利休が自刃させられた事件はあくまでも政治的なもので、<利休さんと太閤さんの意気投合した時代が「侘び茶」をつくり、茶席の花を定着させたのは間違いない。>と結ばれていた。何かほっとするようなお話であった。
エノコグサは漢名では「莠」の字を当てる。
草冠に秀吉の「秀」というのが一層興をそそる。

  そしてもう一人ほとんど顧みられることのない雑草、とりわけエノコログサに愛情を込めて詠っ歌人に島秋人がいる。
獄中にあった7年間に歌人としての才能を開花させ、自らが残した『遺愛集』を掌にすることだけを夢見ながら、エノコログサのように33歳でその穂を摘み取られた死刑囚である。
私はその歌集を叔母の書棚から取り出して読んだことがあったが、偶然にも最近手にした『雑草にも名前がある』という本の初篇に登場するのが、島秋人その人であった。

  白き花つけねばならぬ被害者の児に詫び足りず罪を深めし
  声をあげ悔いることもなぐさめか死刑囚になき更生の道

詫びてすまない悔悟の念が汲み取れる。
  ()みて()しき雑草(くさ)なるみづひきとゑのこぐさとを活けて笑みたり
  刈られずにわれの生かされ()るもののゑのころ草の穂はそよぎたり
  この澄めるこころ在るとは()らず来て刑死の明日に迫る夜温し

秋人の短歌には、()しむ、(かな)し、(いと)ほし、()しきなど「愛」という文字を詠んだものが多い。
獄窓から見える雑草、窓辺に寄る鳥、聞こえる虫の音、差し入れの花、生かされることを許される日々を折々に詠みながら今日の命を愛しみ、死刑囚の心は清らかに澄みゆく。
<人の暖かさに素直になって、人と全ての生あるものの命の尊さを悟り>彼は逝った。

   飢えに耐えかねて農家に押し入り、2千円を奪って家人を殺した秋人。
昨今は秋人の時代のように赤貧に投げ出されて人を殺め、お金を奪うという事件が無くなった代わりに、自己中心的な犯罪の何と多いことか!
そして犯罪を犯すのは、野の雑草というより、むしろ温室育ちの人間である。

  それにしても毎日凄惨な事件が新聞紙面に載らぬ日はない。
いたいけな子供や無辜(むこ)の人、あるいは大切な家族を簡単に殺してしまう。
叔母は毎日新聞の隅々まで目を通しながら「世の中おかしくなっちゃったんじゃないの?苦しかったら自分だけ消えてなくなればいいでしょ。どうして家族を巻き添えにするの?」と憤懣やるかたなしといった様子で語気を強める。
死刑囚には望めない更生の道は開かれている。
しかし、秋人のように魂が浄化され、人間らしい心を取り戻して社会に復帰できるかは甚だ疑問である。
  そんなことを考えていると、被害者やその家族の救われない悲痛な魂の叫びが聞こえたような気がして、胸が張り裂けそうになる。
罪は死によって贖われるのでなくて、命を奪った者が「命の尊さ」に気がつき慈悲の心に触れた時、初めて、被害者の閉ざされた心の扉の前に立つことができるのではあるまいか?

  <雑草には「休眠」という特技があり、それは一定の生育条件が整うまでは絶対に発芽しようとしない基本戦術である。砂漠の中で種は死んでいたのではなく、ずっと機会を待っている。人間も同じ。苦しい時は待てばいい。あせらず時が来るのを待つ。実はこれが雑草から学ぶべき一番大切なこと。>と『雑草にも名前がある』の二人の著者、草野双人は語る。

  名も知らぬ隣合わせた人も命愛しき者。
知らぬ雑草の名前を一つ覚えるように、隣の人を愛しむ(こころ)が今こそ必要とされているような気がしてならない。

名も知らぬ雑草に触れつつつぶやきに聴き入る如く囚徒われゐる

  足を止めて雑草に耳を傾けてみよう。
つぶやきが聴き取れなかったら、休眠が必要かもしれない。
今日は道端の雑草を探しながら、秋人が好きだった賛美歌「いつくしみ深き」を口ずさみたい気分である。
秋人の処刑後、光を待つ人に角膜は残され、その身は献体されたという。


<参考文献> 『遺愛集』 島秋人  株式会社東京出版
『雑草にも名前がある』 草野双人著  文春新書
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