![]() 真如の世界 2005.3.5 |
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京都の西陣に住まいしていた頃の話である。 行きつけの洋酒喫茶『ぶきっちょ』の目と鼻の先に平安時代の陰陽師、安倍清明が祀られていることで知られる清明神社があった。 近年までひっそりした神社であったものが、映画「陰陽師」のブームに乗って観光名所になり、あれよあれよという間に社殿は新しくなり、土地も拡張、縁の一条戻り橋の由来を刻んだ石碑が建立されライトアップするや、「今時、西陣で景気がええのはあっこだけや。」とあからさまに囁かれるようになった。 一昨年のお正月、京都の思い出にと清明神社へ初詣をした。 住宅街の中という立地条件にも拘らず、堀川通りまで列をなすほどの盛況ぶり。 木の香りが漂ってきそうな真新しい社殿の屋根に清明桔梗紋(五芒星)が輝いていた。 私はもともと陰陽道に興味があり、映画の原作である夢枕獏氏の「陰陽師」シリーズや冨樫倫太郎著「陰陽寮」を読んでいた。 映画のキャスティングで安倍清明役に狂言師の野村萬斎さんが決まった時には、あまりのはまり役に拍手喝采してしまった。 ヤクザかマフィア映画しか興味のない私が、「陰陽師T、U」を観るために映画館に足を運んだことは言うまでもない。 夢枕氏の「陰陽師」の中で私が最も好きなお話は「 ご存知ない方のために筋書きを説明しよう。 いつものように安倍清明の屋敷に源博雅がやってくる。梔子が香る6月中頃のことである。 博雅は友人の僧侶が夜な夜な美しい女のあやかしに悩まされていると相談を持ちかけてくる。 何故かその女は口を袖で隠しているのだという。そして七日目の晩、枕元に現れた女は古今和歌集のある歌を暗示する。その歌とは <耳なしの山のくちなしえてしがな 思ひの色のしたぞめにせん> 意味は大和三山の一つ耳成山の梔子を手に入れたいものだ。それで染めれば耳無しであり口無しであって、自分の恋が人にも聞こえまいし、噂にも立つまいという内容の何とも洒落た恋歌である。 女が袖をはずすと口がなかった。この怪奇を解決するために清明は寺を訪れる。 結局女の正体とは、僧が日課としていた般若心経の写経の途中で墨を落として汚してしまった「如」という字が化けて出たものであった。 汚れた「口」の部分を綺麗に直すと、女は現れぬようになったのだ。 「字に限らず、ものには霊がある。霊はすなわち 言葉にも魂があり、時として人の心を傷つけるナイフにもなる。 古来より筆供養や針供養が行われ、筆の毛を提供してくれた動物達への供養をし、役目を終えた道具に感謝しながら芸道や仕事の上達を祈願してきた。 紙の人形(ヒトガタ)を身代わりとして災厄を祓う風習も残っている。 霊が宿ると言えば、その最たるのものは人に愛しまれた人形であろう。 私の家には父方と母方の古い2組のお雛様があり、母方の雛人形は戦争で疎開を重ね、かなり傷んでいた。特に損傷のひどい人形を、母は京都で人形寺として知られる宝鏡寺に納めたいとよく話していた。 宝鏡寺は皇室縁の尼門跡寺院である。 3月1日から4月4日の期間「春の人形展」が開催され、雅なお人形の世界が堪能できる。 供養のために集められた人形は一緒に納められたヒトガタと共にお火上げされ、毎年10月14日人形供養祭の日、灰の一部が人形塚に納められる。 母の死後、ようやく遺言のような思いを果たした時、見ているだけで癒されるような愛らしい御所人形を象った人形塚に手を合わせた。 その塚に刻まれた武者小路実篤先生のお歌が今も心に残っている。 <人形よ誰がつくりしか誰に愛されしか知らねども 愛されし事実こそ汝が成仏の誠なれ> 人形供養はこのコラムでもご紹介させていただいた日本トータライフ協会の各社でも行われている。同協会の考える供養とは、子供達を中心に「お小遣いでお布施をしようね。」という意義を重視した優しさから生まれた発想だと、理事長に伺ったことがある。 物が溢れ、今日のような使い捨ての時代であればこそ、心を通わせた人形や物の大切さを子供達に伝える社会教育の一環になることだろう、と微笑ましい供養のあり方に賛辞を贈りたい気持ちであった。 さて、暦は早如月から弥生に替わった。 春の木と言えば椿が思い浮かぶ。 京都の法然院はいつ訪ねても自然の美しさと静寂を感じるお寺であるが、石段にも花の散る椿の頃は更なり、と言ったところ。 特に本堂北側の中庭にある三銘椿(五色八重散り椿、 冬から春にかけての今の季節には本堂の阿弥陀如来様の前に、毎朝椿の散華が供えられているはずだ。 黒光りする須弥壇に二十五菩薩を象徴する二十五輪の椿が、三輪、四輪、五輪、六輪、七輪と一列ずつ並べられる光景は何と荘厳な眺めであろうか! 散華のための椿は、命のつながりに対する感謝と畏敬の念を以って「南無阿弥陀仏」と唱えられながら花を切り離される。 こうして自然の命をいただいて、次に菩薩としての命を担うのだという。 散華の景色を心で観じながら、しばし静謐の中で「真如の世界」に身を任せてみたいと思う、春光注ぐ弥生のひと時である。
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