迷いの窓NO.54
こころの色
2005.2.1
  雪の少なかった道南の函館も一昨日から降り続けた大雪で、一気に降雪量を増やした。
樹木は重たい雪の綿帽子を頂き、かわいそうに枝が大きくしなっている。
歩道には雪かきをする人が、掻きあげる雪吹雪に見え隠れする。

  白い世界に閉ざされるといつも思い出すのは札幌出身の片岡球子画伯のことである。
その独特の色彩感覚は白一色の世界から、春になると一斉に色とりどりの花が咲く北の大地で育まれたという。
先月5日、百歳の賀を迎えられた画伯、80余年の時を超えてますますご壮健で意欲的に画業に取り組んでおられる。この方も並々ならぬ人間力をお持ちなのである。

  4年前に京都の高島屋百貨店の展覧会で初めてその絵を目にした時、私は魂が吸い取られるかと思うほどの衝撃を覚えた。
色使い、スケールの大きさ、キャンバスに描ききれぬ躍動感も然る事ながら、「面構えシリーズ」における大胆な構図、登場人物の対比、そこに渡される時間の橋。
それらの絵の前に立ったとき、時空の扉が開いていきなり現実から過去を遡り、歴史上の人物が目の前に現れたような強烈な印象があった。
中でも私に影響を与えたのは、高僧を描いた一枚「日蓮」であった。
最初の出会いの時、まだ『空飛ぶ水冠』はかたちもない。
そして不思議なことに、その時共に絵を鑑賞した倉敷の友人はその後僧籍に入るのである。
岡山の日蓮宗のお寺に生まれた彼女であったが、普通の結婚をしてお子様もあり、在家のままの得度とは言え、友人たちを驚かせる出来事であった。
彼女は時を同じくして発信することになったこのページに、少なからぬ因縁を感じてくれていたようである。

  その絵と再び見えたのは一昨年の秋、北海道立美術館でのことである。
この時は「法衣」や「法具」という視点から鑑賞することができた。
法衣の緋色。緋色は延喜式で紫に次ぐ高官の色。平安時代には「思ひの色」とも呼ばれた。
思ひの「ひ」から「火」を連想し「熱き思い」を緋色で表すようになったと言われている。
「白隠禅師」の青の世界とは対照的な赤の画面。
緋色の豪華な法衣、火の形のように方立てた僧綱(そうごう)襟、独特の面構えに払子を持つ仕草は、眼光鋭く視線の先の経本の向こうに真理を見つめる、若き日の情念に燃える日蓮の姿を余すところなく描ききっていた。

  「落選の神様」と呼ばれた画伯の人生は決して順風満帆ではなかった。
「ゲテモノ」を描くと陰口をたたかれ、長く辛い逆境の時代は続き、落選の印である赤紙のせいで、赤色恐怖症になった時代もあったという。
片岡球子その人を象徴するライフワークとなった「面構えシリーズ」で、赤を基調にした「日蓮」を描いた画伯の心情は如何ばかりであったろうか?

  画伯のこれまでの生涯で忘れられぬ出来事は「雲の上の師」と仰ぐ方からの激励の一言であったと半生記『情(こころ)ありて』の中で語る。
<ゲテモノと本物は紙一重です。ゲテモノを捨ててはいけません。
一生懸命勉強しなさい。いつか必ず自分の絵に飽きてしまう時が来ます。そのときからあなたの絵は変わるでしょう。薄紙を剥ぐように変わってきます。>
薄紙が剥がれるまで画伯は能や歌舞伎、浮世絵、洋画から彫刻、歴史や宗教などありとあらゆるものから学び、見えないもの、人の内面を描くことに命の全てを注いでこられたのである。
同時に、子供達に絵を教えることでまた学んだ。
画伯は自ら<芸術は長い間の研究、努力、熱と汗の結晶であり、人との出会いが絵を学ぶ上で特に大切なこと。>と回顧している。

  これは芸術に限ったことではないだろう。
どんな仕事も趣味も、家事にせよ介護にせよ極めようと思えば極められる。
昨年随分と流行った「勝組み」や「負け犬」という言葉が私は大嫌いだ。
たとえ紙一重の人生であっても、誰しもが平等に与えられているのであり、勝ち負けで片付けられるような薄っぺらなものではない。

  聞く耳を持つこと。人の何倍も何十倍も努力を怠らないこと。
考え、創造する力を養うこと。無心であること。人の情(こころ)に感謝すること。
一世紀を過ぎてますます熱情をたぎらせる画伯の生き方に一歩でも近づきたいと思う。
自分にできないことの言い訳をせず、自身を真摯に見つめ、努力を惜しまなければ、必ず軌道修正を可能にする導きが得られるような気がする。
どんな世界にあっても人の情(こころ)を知る人だけが、結局は後悔のない人生を全うすることができるのだろう。

  人は人生というキャンバスに悲しみや喜びや怒り、その時々の心模様を色に写しながら生きているのかもしれない。
純粋であればこそ、見るものに感動を与える色を塗ることもできる。
そして最後はまた透明な無の世界へ帰っていくのではあるまいか?
あたかも雪や氷の結晶となって新たな生命(いのち)の再生を待つように・・・。

  こころとて人に見すべき色ぞなきただ露霜の結ぶのみにて<道元:傘松道栄>
(こころは元来無色、露霜も無色、色なき世界に色なきものが消滅するのみ)
道元禅師のお歌を思い出しながら、これからの人生にどのような色を使った絵を描けるのか、無色透明の世界から考え直してみよ!と錫杖を振られる音を聞いたような気がした。
今、広大なキャンバスのような白い世界を見つめながら、真白き雪に心洗われる思いがする。


<参考文献>『片岡球子』奥岡茂雄著(北海道新聞社ミュージアム新書)
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