迷いの窓NO.42
納骨の旅
2004.9.24
  9月25日は、同居する叔母の姉であり、私にとってもう一人のかけがいのない叔母の祥月命日に当たる。
  私が函館へ来た当初、齢86を迎えた新子叔母は、寄り添うように暮らしてきた4つ違いの姉を亡くしてからすっかり生きる気力を失ってしまっていた。
姉妹は互いに一人であったが、近くに住まいしていた。
ゆっくり歩いても15分ほどの距離にある姉の三四子叔母の家へ毎日歩いて通うことが日課になっていた新子叔母は、それが程よい運動になっていたのか、あるいは若い頃陸上選手で鍛えた生来の身体能力のためか、足腰が丈夫で姿勢がよく、とても実年齢には見えぬ叔母である。
「別に格好をつけている訳でもないのに、皆に姿勢がいいっていわれるのよ。」とか、「若い頃ダンス教師にならないかと言われたわ。」と言うのが口癖で、背筋をピンと伸ばした叔母の姿は、几帳面で、潔癖で、誰に対しても穏やかに接し、気丈に生涯を独身で通したその生き方を象徴していると言えるかもしれない。

  しかし5年という歳月を経ても、大切な人を失った悲しみは癒えなかった。
三四子叔母は80歳を過ぎてから子宮体癌に冒されて、手術するもすでに転移が認められ、抗癌剤を投与していた。
新子叔母も6年前にかかりつけのお医者様にごく初期の段階で胃癌を見つけていただき、自らも手術したが、姉のために自分もこうしてはいられないという気持ちが回復力を高めているようであった。
気力というものが人間にとってどれほど備わった以上のパワーを引き出してくれるかを、まざまざと見せつけられたような気がする。

  4年前の三四子叔母の一周忌に、本山である永平寺に分骨をした。
どうしても納めてあげたいという一念で、叔母は一人函館空港から機上の人となり、羽田で乗り換えて、京都から小松空港へ出迎えた私と合流した。
果たして私の不安を他所に、長旅の疲れを感じさせない、いつもにまして姿勢のよい叔母が到着ロビーに現れた時には脱帽してしまった。
後に叔母がその時のことを歌に詠んでいる。

  さて、小松到着の日は片山津温泉の「ホテ佳水郷」に宿を取る。
一日に七たびも湖水の色を変えるといわれる柴山潟を眺望できる部屋は絶景で、夜になると潟の中央にあって光の中に浮かび上がる色とりどりの噴水が何とも幻想的な雰囲気を醸し出し、目を楽しませてくれる。
モダンでお洒落な設えの展望風呂も最高であった。
美しい器に盛られた旬のご馳走といい、品良く、物静かな中にも細やかな心遣いの仲居さんの風情も“納骨の旅”という寂しさをしばし忘れさせてくれるには十分だった。
いよいよ永平寺へ旅立つ朝の日の出の美しさは、今でも目に焼きついている。

  加賀温泉駅からJRとバスを乗り継いでようやく辿り着いた福井県にある曹洞宗の本山は、森閑とした山の中にあって、どんなに時代が変わり、寺院が近代的な建物になろうとも、空気ますます清浄にして聖域と呼ぶにふさわしい威厳を保っていた。
この神聖なお山で厳しい修行を積んで山を降りる僧が、娑婆世界へ足を踏み入れた途端、葬式坊主に成り下がり、金の亡者の如く変貌を遂げる者もいるというのは、何とも解しがたきことである。

  本山にはお参りとともに、全国からお骨を納めたい方々が集まってくる。
一度に20組ほどが待合の広間へ通され、法要の時を待つ。
一日に果たしてどれほどの人が訪れるのだろう?  
ご寺院の数は曲ろくに座した御導師を含めて10名。
美しく荘厳された本堂に響く般若心経はさすがに圧巻であった。
ここに納められたら未来永劫供養していただけるのだと思うと、不思議と悲しみが軽くなるような、はるばる遠くからやってきた甲斐を認めたような、何とも穏やかな心持ちになった。
洋の東西、宗教に拘らず、聖地を訪れる人間の心理とはこういうものなのだろう。
この一瞬と出逢うために人ははるばる旅をするのかもしれないと、今まで感じたことのない信仰心さえ覚えたのである。

  いつか新子叔母とも避けられない別れが来るだろう。
その時は、やはり最愛の姉が眠る永平寺に共に納めてあげたいと思っている私である。

     老い吾の最後とならむ永平寺  納骨の経ねんごろに聞く    新子

迷いの窓トップへ メールへ