迷いの窓NO.39
夏の出来事
2004.8.31
  今年の北海道の夏は暑かった。
「夏バテ」という言葉も久しく耳にしたことがなかったが、新聞の大見出しに『いけすイカが夏バテ!船の水槽 3分の1死ぬ。』と出た時にはビックリしたのと同時に、水温が高くなってイカも落命するというのだから、今年の夏がいかに暑かったかを思い知らされた気がする。
また、ようやく秋風が吹き始めた頃、駒澤大学苫小牧高校が夏の全国高校野球甲子園大会で優勝し、真紅の大優勝旗が初めて津軽海峡を渡ったというので、今度は歓喜で“熱さ”が戻ってきたのだった。

  そんな暑い夏に、「真夏の夜の悪夢」とも言うべき出来事もあった。
ある晩札幌の友人に電話をすると、お通夜に参列して戻ったばかりの彼女、怒り心頭に発していたのである。
地域の委員や小学校の役員をしている友人は、役割上お通夜や葬儀に参列することが多いのだが、こんなひどいお通夜は前代未聞と興奮まじりに語った。

  亡くなったのは小学校へ通う子供のお母さん。
18歳と8歳の子を残し、享年46歳の若さだった。
お通夜はお寺で営まれた。冷暖房を完備している札幌のお寺には珍しく、例年になく暑い夏にクーラーが効いていなかったそうだ。
呆れたのはお寺様のこと。  このコラムNO.34「優しい導き」とは全く逆のパターン。
お寺の若住職が導師。  脇僧さん2人は他の寺院から来られたようだ。
宗門の師弟関係でもあるのか、年長の脇僧さんがお説教をすることになったらしい。
お説教というのは、最終的に生きている者への戒めとか、生きるためのヒントが必ず含まれているものだ。冒頭「何の話?」と思っても「ああ、そういうことだったのですね。」と感心することが多いのである。
最近のお寺様は実によく勉強されている。

  さて、その内容を要約すると、「テレビも薄くなり、世の中軽薄短小の時代。何もかにもが薄っぺらになった。○○さんは46歳という若さで亡くなったが、こんな世の中長生きしたくないものですな〜。」と何の教えもないどころか、取るに足りないお話だったという。
しかも紙に書いたものを読まれたにも拘わらず、最後は故人のお名前そのものを間違えるという大失態ぶり。
思わず「その人誰?」状態になり、彼女は周りの人と顔を見合わせたというが、お寺様は自分の失態に気付くことなく、薄っぺらな説教を終えたそうである。

  揚げ句は若住職が、寺院内で悲しみに浸っている弔問客を尻目に、早々に法衣を脱ぎ捨てゴルフウエアーのようなラフな服装に着替えるや、満面の笑みで2人の脇僧さんの車を見送っているところを目撃したから大変!途端に彼女、キラウエア火山のように怒りが吹き出してきたという。
故人と遺族が可哀相過ぎる!こんな宗教者ならもういらない!
このお通夜、葬儀委員長さんも義理的に引き受けられたものらしく、遺族の触れられたくないようなお話をされて、悲惨さに追い討ちをかける事態にも発展してしまったというてん末。

  僧侶がいなくても葬儀はできる。
例えば、一般的に「友人葬」と呼ばれる創価学会の葬儀にしてもしかり。
「即身成仏=成仏した人に対する葬儀」、「成仏した故人に対する報恩感謝」という考え方から、引導を渡す僧侶を必要としない。然るべき幹部、あるいは儀典部長が導師を務める。
友人曰く
<僧籍を持っている人よりはるかに心がこもっているし、よほどためになるお話を聴けることが多い。一般の葬儀における司会や葬儀委員長にしても、今はプロと呼ばれる人たちの存在があり、式は粛々と進んでいき、遺族が触れてほしくないことには一切触れないのがよい。>と。

  葬式坊主、お経の出前と言われる昨今、百歩譲って出前でも我慢するとしよう。
せめて報酬をいただく以上は、職業的なプロ意識に徹してほしいものだ。
法衣を纏って一歩その結界に足を踏み入れたなら、姿が見えなくなるまで僧侶としての職務を全うしてほしいと望むことが、無理なことであろうか?

  ちなみに上述の宗派の書籍には、
「葬儀は人生最後の大切な離別の儀式であるから、厳粛に執行すべきである。
その意義は、故人を追憶しながら人生無常のことわりを聞法(もんぽう)して、仏縁を深める報謝の仏事である。  これを主催する僧侶は、生死出ずべき道を自らに問い、威儀をととのえ、正規の勤式(ごんしき)を実践して、衆目の範を示すべき。」とあるのだが・・・。

  残された子供さんの一人が8つと聞いて、ふと『徒然草』の第243段を思い出していた。
<八つになりし年、父に問ひていはく『佛にはいかなるものにか候ふらむ』といふ。
父がいはく『佛には人がなりたるなり』と。また問ふ、『人は何として、佛になり候ふらむ』と。
父また、『佛の教えによりてなるなり』と答ふ。>
子供の疑問に答えるように問答は続いていくのだが、「母親が仏になった」と言われて子供が抱く疑問は昔も今も変わらないだろう。
「仏になった。お浄土へ往生した。」というが、果たして「御仏の教え」で引導を渡したり、経文を唱えて宗教儀礼を行う宗教者は、子供の素朴な疑問に明快な答えを与えることができるのか?
「悲しみを乗り越えて生きる希望を与えない宗教なら、存在理由がない!」と思わせるような、怒りでエキサイトした出来事であった。

  ひと雨毎に秋が深まるというが、15号に続いて台風16号が目下襲来中。
自然も人間の傲慢さに、怒りを露にしているのだろうか?
被害がこれ以上拡大しないことと、真夏の夜の悪夢のようなことが再び繰り返されぬことを願いながら、そして若くして旅立たねばならなかったお母さんと残された子供さんのために、今宵は写経をして心を静め、念じることにしよう。

<参考文献>:葬儀・仏事がわかる本(大法輪閣)
                     徒然草(明治書院)
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