迷いの窓NO.37
ある看取り
2004.7.31
  親戚の中でも心から親しんでいたおばが亡くなってから、まもなく四十九日を迎える。
母の従姉妹にあたる二人の娘さんのことは、幼い頃から姉のように慕っていた私だが、最近では互いに電話で病状や介護の様子を知らせては励ましあっていた。
もともと病身の彼女たちの母親が、昨年の12月に小腸の末期癌と診断された時、家族は在宅での看取りを選択し、最期は痛みの緩和の為、総合病院へ入院していた。

亡くなる一週間前に、個室の特別病棟を見舞ったばかりだった。
別人かと見違えるほど身体が小さくなり、ふっくらしたお顔も様相が変わり果てていた。
すでに意識は戻らず、点滴だけが生命を支えているようであった。
それが最期のお別れになってしまったのである。

  函館は火葬をしてからのお通夜、告別式である。
納棺に立ち会うために自宅へ伺った時、次女の悲しみたるや尋常ではなかった。
函館にいる姉と二人で、単身札幌から来ては交替のでの在宅介護がもう長い間続いていた。
最後の入院となった3週間というもの、ほとんど眠ることもできず、心身ともに疲労がピークに達していたのだった。
仮通夜にお寺様がやって来る時間になっても、立つ事もままならず、さめざめと泣き続けたまま目もうつろで、酸素不足のためであろうか、息も絶え絶えだった。
私は駆け寄って、二言、三言声をかけた。
悲しい時に涙の出ない私だが、ほろりと涙が頬を伝った。
そのとき感動的だったのは、家族の愛だった!
ご主人が自分に妻の身体をもたれかけさせ、17歳と20歳の娘が両脇で母親を見守っていた。
言葉は必要なかった。
父親であるおじは「しっかりしなさいよ。」と一言発したが、その言葉は優しい言い方だった。
そういう時は必ず訳知り顔の親戚が出てきて、泣くのをとがめたりするものだが、制するものは一人としていなかった。
泣きたい時は気が済むまで泣かせてあげることが、一番だそうである。
悲しみの表現は人それぞれであろうし、むしろなりふり構わないその姿は、素直に感情を表現できない人間にとっては羨ましくもあった。
やがて家族に支えられて、ワゴン車の中へ仮眠を取りにいった。

  通夜の当日、出棺後自宅から火葬場へ向かう。
函館の火葬場は外人墓地の山手の船見町というところにあり、晴天に恵まれて海の向こうには、大沼国定公園の秀峰、駒ケ岳まで見渡すことができた。
この眺望の中でお骨になるのが、せめてもの慰めのように思えた。

試練は再び訪れる。
一時間半で収骨。お骨はほとんど形を留めておらず、闘病の壮絶さを物語っていた。
お箸でつかむかつかまない内に、崩れてしまう。
悲しみにうめくようなすすり泣きの声が漏れる。
私は遺族と共に顔が焼けそうに熱くなるのも忘れて、託された叔母の分まで必死にお骨を拾い集めていた。

  北海道では個人の葬儀であっても、葬儀委員長を立てるのが一般的である。
最近は司会と同じように葬儀委員長を請け負う仕事もあるという。
おじの跡を継いで長女夫婦が電気工事店を経営していたので、今回の葬儀委員長は取引先の社長さんであった。
通夜と告別式の両日に渡り、遺族の紹介と故人のプロフィールを語るのも葬儀委員長の役目である。
大抵の場合、結婚式の新郎新婦の紹介のように、こそばゆくなるような美辞麗句が多いのだが、「お料理はプロ級でマヨネーズも手作り、胃腸の丈夫でないご主人のために食事を気遣い、取引先の人を招いてはおもてなしをされて喜ばれたそうです。今、娘さんである二人のお弟子さんにしっかりとその味が受け継がれています・・・。」というお話は、御自身も長女のもてなしを経験されたのだという実感が伝わって感涙を誘った。

  辛い看取りであったことは違いないが、心残りのない看取りのように私には思えた。
あきらめてはいても、奇跡が起こることを心のどこかで期待してしまう。
どんな姿でもいいから、命よ永遠であれ、たとえ僅かの間でも先に延ばしたいを願う。
しかし、避けられないのがこの世の別れ。
私は不思議と悲しくなかった。
姉とも慕う人たちの中に、家族との愛情を育んでいらしたおば様の“命”を感じることが出来たから・・・。
思えばいつも穏やかで慈愛をたたえた観音様のような人であったが、一方では決して人に見せぬ我慢強いその生涯であった。

  同居している叔母の愛読書に『うらやましい死に方』(五木寛之編・文藝春秋文庫)という本がある。今回ばかりは「うらやましい」が実体験となった。
「人は生きたようにしか死ねない」という。
ホスピスで長年に渡り、看取りというお仕事に携わってこられた先生の口から発せられると、説得力があって、身の引き締まる思いがする。
まだ当分あの世からお呼びがかからないとすると、私の「死に様」はこれからの生き方次第ということになる。
親しい人の死は改めて私に「死を見つめて生きなければならない」という自覚を呼び覚ましてくれた。

  絵画と写真が趣味の夫であるおじの撮った遺影が、悲母観音のように優しく微笑んでいた。
「ありがとうございました」と掌を合わせながら、私はそっと自分だけの別れの儀式を済ませた。


<参考文献>『あなたともっと話したかった』柏木哲夫著(日経ビジネス人文庫)
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