迷いの窓NO.34
優しい導き
2004.7.5
  親しい人の訃報に接し、函館の葬儀に参列することとなった。
北海道では宗派に拘わらず、お通夜にお寺様のお説教があるというのが常識で、ほとんど拝聴の機会がない京都のお通夜とは異なるところである。
お家の宗旨は曹洞宗であった。

  曹洞宗のお経でよく聞かれるのは般若心経と、「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり・・・」で知られる「修証義」の中の第一章総序である。
<要約:生とは何か、死とは何かを明らかにすること、私たちが「いのち」の本当の姿をふまえ、よりよく生きようとすることは、仏教徒にとって二つとない重大な人生修行のご縁である。>
通夜の読経が終わり、導師が退場された後、笏(こつ)を手にしたまだ年若い副導師がお説教を始められた。
内容は道元禅師の「修証義(しゅしょうぎ)」の第四章「発願利生(ほつがんりしょう)」の中の「同時(どうじ)」という教えであった。
よく「相手の身になって」という言葉があるが、坐禅をする時に「仏」になりきるように、「同時」とは相手になりきること。
中学生の作文を紹介しながら、平易な言葉ではあったが、心に響くお話であった。
最後に「明日の葬儀は単なる故人とのお別れの式ではなく、逝かれし方と残される方々のための宗教儀礼として執り行う。」と結ばれた時、あまりの説得力に心の中で拍手を送りたい衝動を抑えられなかった。
「如何なる宗教であろうとも、宗教の意義とは生きる知恵を伝えること、そこにこそ宗教者が宗教者たる所以と役割があるのではないか!」という思いを強くした。
それは決して難しい言葉ではなく、凡夫にも理解できるように噛み砕いて、子供でも持っている
悉有仏性(しつうぶっしょう)」ということに気付かせていただくことである。

  仏様の持物の中に「羂索(けんじゃく)」というものがある。
獣を捕らえる網(羂=けん)と魚を釣り上げる糸(索=さく)の意味で、苦界の海をさまよう魚や獣にも等しき救い難き衆生を救うための持物である。
イラクの主権移譲は行われたが、旧態依然として混沌としたままである。
イラク派兵の是非が未だに問われる中で、日本の自衛隊が多国籍軍としてこの後も駐留を余儀なくされている。
札幌市内の公立高校でイラク戦争のリポートを書かせた話が、北海道新聞に掲載されていた。
「イラクみたいな遠い国の貧しい連中なんかどうなったっていい。」
「きれいごとを言ってもしかたがない。戦争の是非を話し合う必要なんてあるのか。」
ごく普通の生徒が平気な顔で書いてくる実態に、教師の暗澹たる心情が読み取れた。
最近、「相手を思いやる想像力の欠如」という言葉が、新聞の論評の中でやたらに目につく。
しかし、これは何も子供に限ったことではあるまい。
苦界の海をさまよっているのは、国や民族、信仰に拘わらず、自分たちの癒しばかり求めて他者になりきれない人間が、世界的に蔓延する社会現象のような気がする。
宗教の生きる知恵はどこへ行ってしまったのだろう?

  そんなことを考えていた時、ふと戒名が目にとまった。院号を戴いた立派な戒名である。
ほとんど嫌な連想が脳裏をかすめていた。
院号料30万円、院号を受ける際の寺院の人数は最低3人という決まりごと。初七日までの読経込みでお布施が40万円。まるで院号セット料金のような説明を受けた曹洞宗による5年前の叔母の葬儀のこと。

この「迷いの窓」のご縁でメールを交換するようになったご住職もある時、まるで会社組織のようになってしまった寺院の悩みを打ち明けられたことを思い出した。
曹洞宗の宗祖道元禅師は「一生不離叢林」つまり、「修行の場を離れるな、世俗から離れよ。」と、永平寺という聖域で教えを説かれた方である。
お寺と檀家の関係が希薄になり、昔のように黙っていても年長者が相応のお布施を包むことを教える習慣がなくなってきたとは言え、寺院までもが「人生色々、会社も色々・・・」と嘯くこの国の総理大臣のように、宗教者としての本分を忘れ、世俗にまみれることだけは止めてほしいものだ。  いいお話をされて、「お説教代」などと勘定科目ができてはたまらない。

  宗教者は今こそ己の迷いを断ち切り、まさに仏の持物である「羂索」となって、「いかに生きるべきか」の明らかな知恵を衆生に授け、慈悲の心を以って苦界の海から救出しなくてはいけない。
その救いのためにこそ、宗教者が必要とされ、宗教儀礼の意義が存在するのではあるまいか!
「死」は如何なる「死」も悲しい。然りながら、本当の知恵を授けられた時、我々は残されし者が生きてゆくこと、それ自体が、仏になりきる「同時」の教えではなかったか!と言う理解にようやく到達するような気がするのだ。
実践することはむずかしいが、御仏の優しい導きがそこにはある。
海がどのような川であっても拒絶しないように、「同時の教え」で他者と一体になることが出来たなら、その時こそ世界に平和が取り戻せることを私は信じて疑わない。

「同時」それはお釈迦様が説かれた“いのちの教え”が要約されていると言われる「修証義」の中で、真理として深く私の心に刻まれたお説法の一つとなった。
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