迷いの窓NO.33
蓮の音(後編)
2004.6.26
  やがてカメラを手にした人や、朝の散歩をするご近所の人らしき姿も見られるようになった。
夜がすっかり明けると、蓮の音は全くしなくなった。

  それにしても、朝の陽光を浴びて開き始める蓮は見事であった。
有名な芥川龍之介の「蜘蛛の糸」に、極楽の蓮池の美しい描写がある。
「池の中に咲いている蓮の花はみんな玉のようにまっ白で、その真中にある金色の(ずい)からは何とも言えない好い匂いが絶え間なくあたりに溢れて居りました。」
白も清楚だが、薄紅色もほのかな桃色もまた中国で「芙蓉」と言う名にふさわしく馨しい。
白楽天の「長恨歌」に「大液の芙蓉のような顔立ち」と称された楊貴妃を偲ばせるに余りある。

  三年程前になろうか?この年は随分「蓮の音」が話題に上った年であった。
今探偵ナイトスクープで放送しているとか、新聞や雑誌に「蓮の音」の記事が載っていたと、コピーしてくれた友人。
滋賀県草津市の水生植物園はもちろん、京阪沿線のどこそこに蓮池があるという情報が、次々ともたらされた。どうやら、私の粋狂ぶりも知られてきたようだった。
しかし結局のところは、未だに「蓮の音」のメカニズムについては解明されていないということである。

  人は何でも知りたがる。科学的に解明されないことは納得できないばかりか、皇室のことから、事件の加害者や被害者の個人情報、拉致被害者家族のその後、知らなくてもよいと思えるようなありとあらゆる個人のプライバシーに至るまで・・・。

急に牛蛙の声を疎ましく思ったことが人間の傲慢のような気がして、反省された。
蓮の音がどうして聞こえるのか?どうでもよいことだ。
人だって、花だってそっとしておいてほしいことがあるはず。
蓮の花は泥中にあっても無心に咲くのであり、命の音に疑問を差し挟む理由など何もない。
むしろ自然の営みによって、自分の五感が研ぎ澄まされていくことに、そして共に生きていることを実感できるこの一瞬に、感謝すべきではないのか!

  「蓮の音」の報告をしながらその日も寄り道した“ぶきっちょ”で、待望のケニー・ドーハムの「蓮の花」をCDで聴いた。
その東洋的なジャズの旋律は、一度耳にすれば聴く者の心を離さないほど魅惑的で、「静かなる・・・」という異名にふさわしいトランペットの調べが、もう一つの「蓮の花」というイマジネーションの世界へ私を誘った。

  函館へ来てしばらく経った頃、友人から届いたのは、京都の匠に蓮の花を描かせた「桐の小箱」。  その中に私の宝物を入れようと思っていたが、よく考えて見ると箱の中には収まりそうにない。  それは、あまりにも沢山の大切な人との思い出だから・・・。
  平安時代に「六種(むくさ)薫物(たきもの)」と呼ばれたレシピの一つに「荷葉(かよう)」という蓮の花をイメージした練香(ねりこう)がある。
今宵は「荷葉」を燻らせて、ケニーの曲を聴きながら、生命(いのち)の音を奏でるあの蓮池の夢でも見ることにしよう。
天龍寺の蓮池



<蓮>
ハス
古来中国ではハスの花のことを「芙蓉」、果実は「蓮」、葉は「荷」と使い分けられ、現在のアオイ科の芙蓉のことを「木芙蓉」と呼んで区別していた。
ヨーロッパではハスとスイレンを総称してロータスと呼び、アメリカではハスを「ロータス(Lotus)、スイレンを「ウオーターリリー(Water Liliy)」と呼ぶ。
 
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