![]() 永遠の命題 2004.6.7 |
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長崎県佐世保市の小学校で起きた女児殺害事件が報じられた時、私は養老孟司先生が著わされた一冊の本、「死の壁」を読んでいた。 私もかつて葬儀という仕事を通して「人の死」に向き合ってきた人間であるが、解剖学という見地から展開される「死」にまつわるテーマは、理路整然としていて、頭の中でモヤモヤしていた私の「死生観」に一つの明らかなヒントを与えて下さったような気がする。 特に「死体の人称」の章は、納得の一語に尽きる。
「死」・・・これほど確かな自然の摂理はないのに、日本人は死を「穢れ」忌むものとして遠ざけ、考えないようにしてきた。 だから、葬祭業従事者に対しても未だに職業的差別があることは否めない。 実際に同僚の女性の中には、職業を隠している人もいたほどである。 「死」は凶事、縁起の悪い事としてタブー視されてきた。 しかし、縁起の悪いのは死ぬこと自体ではなく、死を招いた原因にあるのではないだろうか? とにかく「死」を迎えた瞬間に、人間は新しい名前を与えられ、出来るだけ早く火葬の準備をされ、人間ではなく、人間と区別するための「ホトケさん」や「モノ」として扱われることも少なくない。 ご遺体の傍にも寄らない、燈明や香も供えず、生きている人の食事が優先され、大人の隣でファミコンに興じる子供たち、そんな葬儀式前の光景をどれほど目にしてきたことか・・・。 米国では9割、英国では7割の普及率と言われるエンバーミング(亡くなった方の身体を衛生的に保ち、生前の元気な姿に整形、復元する方法)であるが、日本における一般的な(事故、災害以外)普及率が低いのも、「死んだら人間ではない。」死体の仲間はずれ意識の現れではないかと思う。 その一方で、ご遺体と添い寝をする習慣が残っている地方もある。 北海道のある地域では、最も近い身内がされるそうだが、お父さんが添い寝をしていると、私も僕もと子供達までが添い寝をしたがるので、ほとんど雑魚寝状態でわいわい言いながらの夜伽になるのだという。 亡くなっても人間として接するこんな心温まる葬送の習慣は、長く残してほしいものである。 さて長崎の事件だが、一元的な観点で論じることは避けたいが、加害者となった少女は「普通の子供」ではなかったかと想像している。 死に接することの少なくなった現代は、様々な情報にあふれ、イマジネーションの死体はグロテスクなものであると、「死の壁」は語る。 計画的な殺人と報じられているが、11,12歳の子供の計画ってなんだろう? おそらくゲームをリセットするような感覚が、世間で「殺人」という凶悪犯罪になってしまったのではないのか。その時「死」はグロテスクなものではなく「なんだこんなものか」という実感だったに違いない。 「被害者に言いたいことは?」と弁護士に問われて「会って謝りたい」と言ったその言葉には、失われたら二度と取り戻すことが出来ない命に対する現実感は全くなかった。 マスコミはこの子に何が起きたのか?性格、家庭、学校、ネット社会のひずみ、などと取り沙汰するが、「特別な子供」であり、「家庭に問題があった」ことを証明して、「犯罪者」として共同体のルールの外側に放り出そうとしているように思えてならない。 そもそも、これまで「死」を避けて通ってきたことに根本的原因がある。 「殺すことは犯罪、人を傷つけることは悪い事」と教えても、死を避けてきた大人は子供の「何故?」に答えを与えてこなかった。 今「死の教育」をなおざりにしてきたことのしわ寄せが、社会に大きな病巣の口を開いている。 大切なのは加害者の少女を精神鑑定することなどではなくて、彼女の友達であった被害者の死、つまり「二人称の死体」を見せること、葬儀で悲しむ周囲の人の姿が現実であることを実感させることではないだろうか? 「特別な子供」として社会から葬り去り、何事もなかったかのように安心することだけは何としても避けたいものである。 同じ学年の子供たちの半数以上が、幼稚園時代から加害者の少女を知っているという。 当然のことながらPTSDも心配される。 子供達の心からこの事件は生涯消えることはないだろう。 何処にでも誰にでも起こりうる事件として大人が真実から目を逸らさず、「何故殺してはいけないのか?」子供に説明できる教育を考える、重大な局面に我々は立たされている。 平和な日本でニート(無業者)と呼ばれる働く意志のない若者が増えていく社会には、生きる力が失われているようで、非常に危ういものを感じる。 「死」を意識しなければ、「生きる力」も育まれないであろう。 これ以上、少年少女に重い十字架を背負わせてはいけない。 「一切衆生の中に悉く仏性があり、罪の中にはすでに慈悲がある。」と仏法は説くが 十代の子供たちによる衝撃の事件は、そのまま子供たちの悲鳴であり、あまりにも大きな犠牲を払って、無知蒙昧なる大人たちに「命とは?」という永遠の命題をつきつけているような気がしてならない。 <参考文献>養老孟司著 「死の壁」新潮新書 |
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