迷いの窓NO.25
介護の部屋2
2004.4.30
  私は、前世が「忍びの者」ではなかったかと思うほど、日頃から眠りの浅い人間である。
それが夜を徹しての介護に向いていると言えなくもないが、四、五日経過する頃には叔母も徐々に眠れるようになり、看護師さんが入室したのもすぐに気付かないほど、私の疲れもピークに達していた。
仮の寝床は個室のカーペットの上にレジャシートと敷きパットを重ね、病院の掛布団を縦に二つ折にしてその間に包まって休んだ。

禅の修行僧の一日を書いた本に、
一、開静(かいじょう)(起床)・・・雲水は直日(じきじつ)(堂内指導係)の鳴らす小鈴(いんきん)が鳴り終わると一斉に起き上がり、柏蒲団(掛布団と敷布団が一枚で柏餅のように二つ折りして用いる)を丸めて蒲団棚に放り上げ・・・とあり、
柏餅とは上手い表現だと感心したことがあるが、こんなところで自らが経験しようとは思わなかった。端午の節句を前に和菓子屋さんの店先に並ぶ柏餅を見ては、我が身に置き換えられて苦笑を禁じえない。
叶うことなら、肝心な時に警策(精神棒)で激励してくれる師がいたらと、贅沢な空想にふける夜もあり。

 五日目を過ぎた頃、叔母の譫妄も終息し、ここが何処か、自分の置かれている状況がわかるまでに精神状態は安定した。おそらくもう抑制されることはないだろう。
病状は、相変わらず酸素の量が少ないため吸入は続き、チューブの数も減らなかった。
叔母にとって一番辛いのは排便である。
オムツをしていることに気が付いた時、「こんな情けない姿になるなら死んだ方がまし」とまで言って、ベッドの上ですることを頑なに拒み続けた結果、ベッド脇にポータブルトイレを置いて、介助を受けながらさせてもらう事になった。
それでも人の手を借りなけければならない状況を情けないと口にする叔母だから、どんなに疲れていても介護を他の人には委ねられないのである。

日本の老人施設には男も女も一緒にして、歳をとったら恥じらいなどないと考えているところがあるようだが、人間はどんなに歳を重ねようと痴呆が進もうと、自由を束縛されること、プライドを傷つけられることには耐え難いものであるとつくづく思う。

  看護助手のような生活にも慣れてきた。
門前の小僧ではないが、看護師さんに学ぶことは多い。
私は前向きな介護を常に考え、実践している。
ものは考えようで、介護も楽しいものに思えてくる。
まだベッドから起き上がれない叔母に、手の角質取りやアロマオイルのマッサージによるハンドケアーを施している。
それまでまじまじと叔母の掌を見ることはなかったが、その生命線があまりにくっきりと長く曲線を描いているのを見て、これは「長寿の手相だ!」と二人で顔を見合わせて笑った。
次は朗読の練習も兼ねて、今勉強している佐野洋子さんの絵本「百万回生きた猫」を聞いてもらおうかと考えているところだ。これは大人も楽しめる絵本だから・・・。

  叔母は少しづつではあるが快復に向かっている。
自分のことはさておき、看護師さんに「御飯食べたの?お休みないの?大変だね。」などと話しかけて、いつもながらに人を気遣う優しい叔母に戻っている。
ここは公立の大病院。900人の入院患者さんがいる。
看護師さんはいつも忙しく、優しい言葉をかける余裕もないように見受けられる。
短くてもいい、ほんの少しのあたたかい言葉がけで、患者さんの心は癒されるのに。

退院したら私の慰労の意味も兼ねて「温泉旅行へ行こうね。」と叔母は実現を楽しみにしている。  叔母の介護は私にしか出来ない仕事。
こんなにも必要とされて、介護をさせてもらえる事を『幸せ』と思わないで何としよう。

  函館の桜の開花は、昨年より一週間早い。
去年の5月3日には、二人で五稜郭公園の満開の桜を愛でながら、散策を楽しんだ。
桜は間に合わないが、同じ公園の藤棚から、紫の房が優雅な姿をそよ風に揺らす頃には、退院できるかもしれない。

  昨晩十日ぶりに柏蒲団から解放されて、我が家の蒲団で手足を存分に伸ばして休んだ。
「忍び」はうかつにも熟睡していた。溜まっていた疲れがみるみるまに解けていくように・・・。
今朝は、美しい鶯の声で目覚めた。
「よきこときく」前兆のように、清々しい朝だ!
お花見日和の晴天のお日様のもと、今日も一日の活力が湧いてくるのを感じていた。
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