迷いの窓NO.24
介護の部屋1
2004.4.29
  昨年4月、桜前線と共に北上して函館に居を移してから、ちょうど一年になる。
一人暮らしの高齢の叔母と同居し、心の支えとなり、自立した生活を送ってもらうことが目的の第一義であったが、それもここへきて、いよいよ介護生活の様相を呈してきた。

  2月、3月と感冒から喘息の発作に悩まされた叔母が、4月に入りようやく元気を取り戻したかに見えた矢先、心不全による呼吸困難で、救命救急病院へ担ぎ込まれたからである。
HCU(重症患者病棟)では意識もしっかりしていたが、三日目に真っ白い壁で囲まれたホテルのような循環器内科の個室に入った途端、彼女の精神状態は一変する。

うわ言のように支離滅裂な事を話し、突如ミステリー作家になって、まるで資産家の自分が悪い姪に拉致、監禁されてしまったかの如くの妄想で、攻撃の矛先が俄かにこちらへ向かってくる。
導尿、点滴、酸素吸入と沢山の管に繋がれているにも拘わらず、「陰謀で連れてこられた」「家へ帰る」といって起き上がり、とうとう両手をベットに縛り付けられてしまった。
「譫妄(せんもう)」が始まったのだ。
(※譫妄:意識レベルが低下する夜に起きやすく、突然いないはずの人や動物を見たり、泥棒や火事を怖がったりする異常な行動。高齢者に多く見られるが、意識のはっきりしている痴呆とは異なる。)

以前から入院時の一時的な記憶障害は見られたが、これほどの症状は初体験である。
病気の言わせる(たわごと)とは解かっていても、私の声に過剰に反応して抵抗されると、悲しい思いで胸が塞がれてしまう。
基本的には完全看護だが、譫妄が現れた時点で責任が負いきれないと思ったのか、病院側からは夜間の付き添いを促される。

  入院時に「抑制」についての同意書に署名捺印させられていた。
その時はよもやそんな事態には・・・と内心拒否したい気持ちもあったが、病院サイドには「命の保証は出来ません」とでも言いたげな、一種の威圧感があった。
HCUの向かいのベッドの患者さんも、やはり四肢抑制帯でベッドに手足をくくられていた。
「かわいそうだね。あんなふうになりたくない。」と言っていた叔母が、二日後には同じ姿になろうとは・・・。生命危険防止措置と説明されれば、納得するよりほかなかった。

突如、5年前にもう一人の叔母(彼女の姉)が亡くなった時、葬儀社の人がドライアイスを抱かせる為、組手をした手首を縛ったことを思い出していた。
仮通夜を二晩過ごし、いざ納棺という時、縛られた手首は紫色になっていた。
癌で苦しんだ末、死してなお、その時のあまりに痛ましい光景が何故か脳裏に蘇った。

個室に移された日から、私は毎晩付き添っていた。最初の晩は一時も目を離せなかった。
二晩目からは長期戦を決め込んで仮眠の床を用意したが、病人が眠っているのは消灯から2〜3時間だけ。
強い睡眠剤が使えない為、夜半から朝方にかけて、息苦しそうに激しく寝返りを繰り返し、時に半身を起こしたりするので、ベッドの頭部を上げ下げしたり、背中をさすったり、鼻からずれた酸素吸入のチューブを正常な位置に直したりと、30分〜1時間毎に介護をした。
勿論看護師さんはいたが、同病棟の患者48人に対して深夜勤の数は僅かに3人。
ナースコールがあちこちで鳴り響く中、常にパタパタと忙しそうな足音が聞こえてきたので、よほど手に余る時しか私はコールしなかった。

二日目の午後、少し落ち着いた様子に安心して、看護師さんに後をお願いして病室を3時間ほど空けた。
家まで往復1時間。留守宅の確認と洗濯、必要品の購入など仕事は山ほどある。
不在の間、抑制する事を承諾させられた。
用事を済ませ急ぎ病院へ取って返した私は、直ぐに部屋の異変に気がついた。
個室のカーペットを掃除する人の姿を確認したからである。
ナースステーションで「何かありましたか?」と尋ねると、答えにくそうに、点滴を自分で抜いて、その手から流れ落ちる血液で血だらけになって部屋の中を歩き回っていたのだという。
目が覚めたら両手の自由が奪われていて、自分が何処にいるのかも判らなかったのだろう。
ありったけの力で縛られていた手をほどき、チューブを抜去したらしい。
病院はもはや信頼できる場所ではなくなっていた。

  夜通しの介護も三晩を過ぎると頭ももうろうとしてきたが、私の心にはこれ以上叔母を「抑制」されてなるものかという必死の覚悟が生まれていた。(続く)
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