迷いの窓NO19
心熱き人
2004.2.24
  叔母の病院へ付き添っていくと、10床ほどある点滴のベッドは老若を問わず、ほとんど常連の患者さんでいっぱいである。
いつものように点滴の針を落とすのを見届けてから部屋を出ようとしていると、少し離れたベッドの上の顔色の悪い男性に、看護婦さんが「○○さんお注射します。肩を出してください。」と優しい口調で声をかけた。
次の瞬間、男性が脱いだセーターの肩口から、おそらく(せな)一面に彫られているであろう刺青(いれずみ)が黒々と現れた。
「極道の妻たち」を見逃さないほどヤクザ映画好きの私は、久々にお目にかかったモンちゃんに思いがけず葬儀社時代に体験した組葬のことを回想するのだった。

  会社へ出勤すると事務所正面のホワイトボードに、当日のご葬儀やお通夜の施行表がお家毎に貼られている。
お客様や業者さんも出入りするから、勿論ご葬儀の金額などは隠語で表記されているが、その情報の中に時々注意の注の字をギザギザの星マークで囲んだものがあり、内々では「ギザ注」と呼んでいた。何らかの形で「ヤクザ」と呼ばれる方の関連のお仕事と言う意味である。
これは差別などではなく、一般の方と異なる注意点があるという印。
出来ればご遠慮したいという同僚の中にあって、私は指名していただきたいぐらいの気持ちで、担当が回ってくるのを願っていた。

  葬祭サービス側の留意点というのは、関係者のお集まりが早いので通常より早く出動すること、筋目に厳しい世界なので供花や焼香順位に注意を払うこと、終始迅速な行動を心掛ける、お接待も組の序列に従うことなど。
喫煙者が多いため、灰皿を通常の何倍も用意することも欠かせない。

親分衆は、大概告別式当日ではなく、お通夜に来られるのが最近の傾向である。
葬儀会館で営まれることも多いため、当然警察も出張る訳で、堅気のお人に対する配慮もあってのことのようだ。

  ヤクザのご葬儀は悲しみが深い。
早々に集まって、兄弟、姐さんと呼び合う姿は、盃を交わした人の絆の深さを感じずにはいられない。
一家の組長クラスが到着されたことはすぐわかる。玄関に黒塗りの外車が到着するや否や、式場内がにわかにざわめき立つからである。
そのざわめき加減で人物の重要度までわかってしまう。
親分、代行、若頭と呼ばれる方々は、普通のおじさんやお爺さんとは明らかに違う。
第一、目に力がある。「往生の覚悟」というものが目の奥底に光る。
あの目で見つめられたら、子分でなくても「命預けます。」と言いたくなってしまう。
堅気に声を荒げることもないし、レディーファーストで礼儀正しい。
残念ながら一般社会では、めっきり「逃げを打たない男」とかいうのにお目にかからなくなった。
「はいた唾は呑み込めない、有言実行」に潔さを感じるのは私だけだろうか?

  さて組長クラスの要人は部屋の奥でしっかりガードされる。
接待は通常と異なり、奥からというのが鉄則である。
しかし、私たちが組長にお茶やおしぼりを直接差し上げることはほとんどなかった。
用意している端から舎弟が奪い取って、一目散に親分の所へ駆けて行くからだ。
その一途さには心打たれるものさえある。
若い衆にしても、「姉さん茶くれ」と盆から湯飲みを取ると、お酒のように一気に飲み干して、「おおきに」と必ず礼を言う。
非常識な一般人に比べたら、よほど礼儀正しいのである。
この礼儀は刑務所より厳しいと言われる「部屋住み時代」(飯炊き3年、雑巾がけ5年)に叩き込まれるのだという。
最もヤクザの世界もご多分に漏れず、人材不足。
ケツを割るのも多いし、法律で未成年者がガードされていることも、部屋住みが減少していることの原因だという。

  広域組織の中には憲法十七条ならぬ「若者心得十七条」を持つ組もあり、その条文の中に次のようなものがあるというので、さわりをご紹介しよう。
(参考:「ヤクザに学ぶ指導力」 山平重樹著  幻冬舎アウトロー文庫)
  • 一、家の中での挨拶は正座をして拇指(おやゆび) を隠して行う。
  •       拇指を内に折り曲げるのは「利き手を使わない、手対いしない」一方では
  •       「利き指を切り落とされない為の用心」とも言われる。
  •       いつでも御用を承りますと言って師の前で右肩を露わにする
  •       僧侶の偏袒右肩(へんだんうけん)とも共通するものがある。
  •       唯一親分は拇指を立てて挨拶をする。
  • 一、挨拶の時相手から目を絶対にそらせてはいけない。
  •       それは相手に隙を見せないため。
  •       但し、親分や兄貴には目を伏せて挨拶をする。
  •       上記の礼法はこの世界独特のものであろう。
  どんな生き方をしても人間の終焉は平等に訪れるが、悲しみの色合いは全く違う。
葬儀の仕事に従事していると、お祭壇の前に誰もいない、お線香を絶やさず夜とぎをすることも忘れられ、揚げ句葬儀式場にご遺体を預けたまま、「お願いします。明日は式の前に来ます。」とご自宅へ帰られるケースもあり、ご事情は有るだろうが、こちらの方が悲しくなることも間々あった。

「善人なをもて往生をとぐ。いはんや悪人をや・・・。」とは親鸞が説く「悪人正機」の一節であるが、「任侠道」という世界で盃事の上に成り立った親、兄弟を慕い、死を悼む心熱き人に比ぶれば、むしろ「悪人正機」で救われなければならないのは、悲しみという感情が枯渇し、自分のことを善人だと思い込んでいる一般人、かもしれない。


〜お断り〜
この文章は決して暴力を容認したり、組活動を擁護するものではありません。
あくまで「死」というものに等しく向きあう人間の心情について書いたものであることを、どうかご海容いただきたい。

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