迷いの窓NO.111
柿色の記憶
(二幕)
2007.1.20
  現在「柿色」という時、誰もが思い描くのが柿の実のようなオレンジ色であろう。
染色の色名は「照り柿(てりがき)」。しかし、この色が認知されたのは近世になってからのことである。古来柿色と言えば「柿渋色」で、團十郎茶も「柿色」の一つである。
柿の木
  この事実からも、日本の柿は渋柿であったという推定が成り立つ。
渋柿には数え切れぬほどの効用があったからだ。
まず民間療法として高血圧、脳卒中、やけど、打ち身、二日酔いなどに用いられた。
柿渋には防水、防腐効果があるため古くから桶、樽、和紙、天井板、柱の塗料、魚網や舟底の強度を増すために使われ、日常生活に欠かせないものであった。
また、一閑張り、団扇という工芸品を作るために一役も二役も買ってきた。
一体いつ頃どのようにしてこういう智恵を発見したのであろう?

  さらに柿渋は紙や布に染色されて柿色となる。その後柿色は数奇な運命を辿ることになる。
山伏の衣装になり、落ち武者や忍びの者、密使などが山伏に身をやつすようになったからだ。
それがお薦さんや農民一揆の服にも使われ、歌舞伎の定式幕や遊女屋の暖簾(のれん)となるや、非日常の色を意味するようになった。
手ぬぐいも歌舞伎と関わり深いものだが、「京伝てぬぐい」なるものがある。あの暖簾から覗いている人、あれは山東京伝その人だろう。
二色染めの柿色の暖簾、篤とご覧じられたし!

  歌舞伎界では2005年坂田藤十郎の名が231年ぶりに復活を果たし、2006年には先代から20年の時を経て中村勘三郎さんの襲名披露が行われた。
そして2007年新春2日、大阪の松竹座で300余年の歌舞伎史に刻まれる出来事があった。
「和事」と呼ばれる上方歌舞伎の創始者坂田藤十郎を受け継ぐ4代目と江戸歌舞伎「荒事」の創始者市川團十郎12代目、東西の大名跡を担う両役者が初めて同じ舞台に立ったことである。名跡を継ぐということは芸を受け継ぐこと。家を継ぐ子供に生まれたからといって襲名を約束されているわけではない。
ひたすら芸道に精進し、名実共に認められた役者だけがその名を受け継ぐことが許されるのだ。それは並大抵のことでは叶わない。ゆえに231年もの間、名跡が不在ということが生じた。歌舞伎、落語、人形浄瑠璃という演芸の世界ではそれだけ大切にされてきたものである。

  テレビ中継で藤十郎さんが義経、團十郎さんが弁慶を演じる『勧進帳』を観たときには、今自分が時代の生き証人であることの感動に胸が震えた。
75歳とは思えない藤十郎さんの若さと優雅さ、昨年5月の復帰まで難病である白血病と闘っていたことなど微塵も感じさせない躍動感と気迫にあふれる60歳の團十郎さん、至極の芸のなかで役者魂のぶつかりあう様に息を呑んだ。現代の時代劇ならこういう年齢に達した役者が演じるなど考えられないことだろう。

  團十郎襲名披露から22年。あの時と同じ演目。全く遜色ないどころか、進化し続けてきた円熟の芸であった!隈取をした弁慶の「見得」と「飛び六方」の見せ場を“ツケ”や”化粧声”が盛り上げ、客席から“成田屋!”の掛け声がかかった。
この息合い、演者と観客の一体感は歌舞伎という古典芸能でしか味わえない極上の旨味と言えるのではなかろうか?掛け声は歌舞伎フアンなら誰もが憧れるところではあるが、実際にはタイミングが難しく、プロの“掛け声屋さん”が存在するようだ。

  一方、坂田藤十郎の本領が「やつし事」。高貴な人物が町人や職人などの姿となって人間の真実に迫っていくものだ。勧進帳の義経もやつしの一つと言えよう。
最近ではあまり耳にしなくなった関西弁に「やつす」という言葉があり、文字通りの「目立たないようにする、まねる」という意味ではなくて、「めかす、お洒落をする」という意味で使われている。
ある時、京都で散髪へ行ってきたという知人の男性に「やつしてきましたんや」と言われたことがあり、何とも情緒のある言葉だと思った。
これには役者のように「やつす」「めかす」というニュアンスがあった。格好よく「やつす」ことは役者が役者であり続ける限り背負う宿命でもある。
近世までは標準語として通じていたらしい言葉が関西でかろうじて片鱗を留めてきたものだろうが、今や滅びゆく美しき言葉になりつつあることは寂しい限りだ。

 梨園では歴史的な出来事が続いているのに、歌舞伎ファンは別として、思ったほど世間では騒がれていないのが不思議でならない。話題になるのは梨園のプリンスと称される後継者たちの恋愛話やゴシップばかりだ。
そもそも歌舞伎役者は河原乞食と呼ばれていたほど身分が低かった。
人気が高まるにつれ商家が軒を並べる表通りに住まうこと、屋号を持つことが許されるのである。未だに役者が芸名と別に俳名(はいみょう)を持つのも、素養として俳句を嗜んだからだと言われている。
初代團十郎の父親については風聞様々だが、「(こも)の十蔵」と異名をとった侠客という説もある。
それが事実だとすればシンボルカラーの柿色が身分社会への反骨の色にも、庶民の鬱憤を晴らすスーパーヒーローを象徴する色にも見えてくる。

  先に触れたように、市川家と成田山との縁は深い。
後を継ぐ子に恵まれなかった初代團十郎がお不動さんに願掛けをして生まれたと言われているのが不動の申し子と呼ばれた二代目である。
その恩に報いるため市川宗家では代々お不動さんを信仰し、参詣にやってくる人々に取り持ちという接待役を務めてきたのだという。不動尊のお慈悲に感謝し、慶びと報恩を衆生と分け合うという精神は今も舞台で貫かれている。
これが歌舞伎十八番で「不動」が演じられるようになった由縁である。
かっと目を見開いて睨みをかす成田屋の芸「見得」は不動明王の忿怒のお姿であった。
そこから「不動の見得」と言われる見得中の見得が生まれた。
勧進帳を読み終えた弁慶がするのも不動の見得。(歌舞伎用語としては「見得を切る」という表現は間違いで「見得をする」というのが正しいそう。)
経巻を剣に、数珠を羂索に見立てた不動明王の姿である。
睨まれて病気が治ったという言い伝えもあり、不動信仰と重なって團十郎にお賽銭を投げてご利益を求める人であふれた時代もあったという。

  不動明王は大日如来の化身。
その手に持つ宝剣は三毒の煩悩である「(とん))じん)()」(むさぼり、怒り、無知なること)を断ち切る「智剣」と呼ばれている。
毎日のように目や耳を塞ぎたくなるような事件が多発している現世は人間の姿はしているが、心は鬼畜道に身を委ねた人間が住まう世の中である。常に迷いの中から抜け出せずにいる人間の多い今日ほど、不動の見得を必要としている時代はないのかもしれない。(NO.112へ続く

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