迷いの窓NO.108
恋の道行き
(前編)
2006.11.8
  暦の上では立冬を迎えた。季節は晩秋から初冬へと移り変わろうとしている。
何とはなしに物悲しいようなこの季節は人肌の燗酒が恋しくなる時節でもある。

  函館駅から程近い若松緑地小公園というところに箱館戦争で壮絶な死を遂げた新撰組副長、土方歳三最期の地碑がある。
端正な顔立ちの歳(とし)さまに思いを寄せる全国のファンが足跡を訪ねる旅を楽しむことも少なくない。
「泣く子も黙る鬼副長」と呼ばれた彼が俳句を嗜んでいたことは意外に知られていないようである。俳号は豊玉。その句の中に
しれば迷い知らなければ迷わぬ恋の道
というものがある。あまりのストレートさ、本質を言い当てているところに思わず“くすっ”っと笑みをこぼしてしまう。
こんな句を思い出したのは親しき友の恋語りに耳を傾けたせいかもしれない。

やはり函館ゆかりの歌人である石川啄木にも恋の歌は多い。
わが恋をはじめて友に打ち明けし 夜のことなど思ひ出づる日
函館の青柳町こそかなしけれ  友の恋歌矢ぐるまの花


  恋は盲目。気がついたときには行き先のない急行列車に乗っている。
それがたとえ危険であるとわかっていても、情念の炎を燃えつくすまで引きかえすことなどできないのだ。制約があればあるほど、禁じられればそれほどに気持がエスカレートしていくこともある。何とも厄介な感情だ。
数多の和歌に詠まれ、歌になり、文学作品や芸能や映画になっても未だにその実態さえつかめない。布施明さんの「恋」の歌詞ではないが、恋というものは不思議なものである。
この歌は平尾昌晃さんの作詞であった。
逢うたびにうれしくて
逢えばまた切なくて
逢えなけりゃ悲しくて
逢わずにいられない

人間の素直な感情が愛しく思えてくる。

  心の友の不老具「ねえねえ知ってた?」の5月の記事にこの不可解極まりない“恋”の正体が脳内ホルモンの一種、通称「トキメキホルモン」なるものの仕業という記事があり、興味深かった。(因みに出張不老具からもご訪問いただけます)
覚せい剤と同じというお話から、不意にラテンナンバーとして馴染み深い「アマポーラ」を聴いたような気がした。女性に譬えられている「アマポーラ」実は麻薬の原料となる芥子のことでもあるからだ。

  一夫一婦制が確立していない時代、万葉の人々はおおらかに相聞歌を交わし、表現も直接的であった。男女間で「逢う」と言えば互いの気持を身体で確かめ合うことを意味していた。
百人一首に数えられる藤原敦忠の和歌も有名である。
あひ見てののちのこころにくらぶれば昔はものを思はざりけり

俵万智さんの『あなたと読む「恋の歌百首」』の解釈によると<「結ばれて後の複雑な心に比べれば、以前の悩みなんて物思いのうちにも入らないなあ。」という心境を詠んだもの>だという。
その著書の中で恋の達人とも言うべき岡本かのこさんの歌に触れ
ゆるされてやや寂しきはしのび逢ふ深きあはれを失ひしこと
<恋の障害がなくなったとき、人は逢引の情緒、「深きあはれ」を失ったことにはじめて気付く。その喪失感を人は満たされる瞬間にも何かを失う。>という言葉で表現している。同じ歌人としての俵万智さんの洞察力には一撃を与えられた思いである。
これこそが恋が持続しないと言われる所以であり、前述の不老具にあった「愛というものに姿を変えたときに恋を失う瞬間」なのだろう。

  恋が芽生えれば対のように生じる厄介な感情がジェラシーである。
「ジェラシー愛の言葉は  愛の裏側ジェラシー♪」井上陽水さんの心ゆさぶるような甘い旋律が聞こえてきそうでもあり、コンチネンタルタンゴの代表作「ジェラシー」の壮大な曲が頭の中で奏でられるようでもある。
瞼を閉じるとたちまち緞帳が上がり、恋と嫉妬に狂うカルメンのドン・ホセさえ小さな劇場にその姿を現わすのだ。

  嫉妬というものは男女間のものとは限らないが、女性より男性の方が激しいのでは?と思わせる場面に遭遇することがある。
日本では女性特有の感情とされて漢字では女へんの隣に「疾」の字や「石」の字が据えられてきた。
江戸時代の女性用の道徳書、教訓書である『女大学』なるものが世に出ると、「七去の教え」に妻が離婚される理由として「嫉妬心が強いこと」が挙げられるようになった。だが、道徳の規範にも縛ることの出来ないのが嫉妬という感情だ。

  さて男と男に挟まれた女は「(なぶ)る」と読むが、女と女に挟まれた男もまた「なぶる」であり、さらに「うわなり」とも読ませる。
「うわなり」は「後妻討(うはなりう)ち」のこと。先妻が助っ人を連れて後妻の家へ乗り込み、乱暴狼藉をはたらくものである。時代劇の中では鉢巻や襷がけの姿も勇ましく、家財道具などをめちゃくちゃにしている映像を目にすることがある。
こうなるともう一種の祭礼のようなもの。
理性など及ばない女性の感情を習慣として認めていた時代の人間味あふれる様が微笑ましいではないか?!

  まだこの程度は可愛らしいものだ。
歴史や物語に登場する人物の中には身震いするほど凄まじい女たちがいる。
枚挙に暇がないが、北条政子などは自分の懐妊中に夫頼朝と関係を持った女性(亀の前)の邸宅を破却させてしまった。
また、源氏物語の六条御息所は源氏の正妻葵上に生霊として取り憑き、ついに死に至らしめている。
狂女ものの能「葵上」でうわなりうちに出る御息所につけられるのはぞっとするような形相の般若面である。にも拘わらず、六条御息所は現代もなお愛され続けている女性である。
哀しいまでに妖艶な姿となって、上村松園さんの絵画や人形師ホリ・ヒロシさんの手になる人形の中に、愛と憎しみの情念を燃やしながら永遠の命を吹き込まれている。(NO.109へ続く

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