迷いの窓NO.103
介護の部屋16
2006.6.29
  お花見から2週間ほど経った日曜日、これもまた叔母にとって感動的な出来事があった。
(2006年5月28日)それは「舘野泉ピアノリサイタル」であった。
ご存知の方も多いと思うが、フィンランド在住で世界を舞台に活躍されるピアニストである。
4年前公演中に脳出血で倒れ、右半身がご不自由になった。その後不屈の精神力で2年後に復帰、現在は片手演奏という制約の中で、それを感じさせない左手から生まれる旋律が世界の人々を魅了し、感動と勇気を与えている。
この方のお母様が若いときに過ごされたのが北海道の室蘭であったと新聞で知った。
お母様は現在92歳で横浜市在住。昨年脳出血で倒れ、やはり半身不随となられたそうだ。
最近は室蘭の思い出ばかり話されているのだおいう。
舘野氏は「函館はおそらく私が母に抱かれ生まれて初めて旅したところです。」とテレビのインタビューに答えられていた。さすがに国際人らしいお話しぶりに感心した。演奏を聴かずともその一言でお人柄が知れようというものだ。このようにどこへ行かれてもその土地の人に愛情を持って接していらっしゃるのだろう。そして北海道での演奏旅行の様子をお母様にお聞かせになるに違いない。それがどれほどお慰めや励ましになることか想像に難くない。

  私たちはコンサートホールの前から5列目の席で、左手でピアノを弾くお姿もよく見えた。まるで自動演奏でもあるかのように力を入れているとか、不自然さは微塵もなかった。
うっとりと見とれるような指が鍵盤に触れると、命を与えられた音はたちまち神秘的な曲を奏でる。一音一音に色彩や香りや光が見え、あたかもそこにミューズたちが出現したかのような演奏であった。これほど美しいと思うピアノの音色を私は未だかつて聴いたことがない。
休憩中に叔母は「片手でね。よくまあ・・・。」と自分の左手でピアノを弾くまねをしながら「来てよかったよ。素晴らしいね。感動したよ。」と少女のように瞳をキラキラさせていた。
プログラム中、舘野氏のために邦人が作曲した作品はどれも素晴らしいものだった。
舘野氏が存在しなかったら、左手という制約がなかったら、生まれることのない曲だったのでは?と思うと「人間の可能性」という名の奇跡に心は打たれていた。
最終のアンコール曲はリハビリ中の右手も使って弾かれ、割れんばかりの拍手は鳴り止まなかった。外は生憎どしゃぶりの雨であったが、心は慈雨で満たされたのであった。


  つい最近も認知症のお母様をご家族で介護した経験のあるみのもんたさん、認知症という病を得て前向きに生きていらっしゃる方、団塊の世代で認知症になった夫を介護される奥様などが出演する番組が放送されていた。「認知症は進んでからが大変。少なくとも3人のスタッフ(人)の見守りがいる。日本ではサポートが遅れている。」ということを訴えていらした。確かに昨今耳目にする「介護心中」の文字は悲しすぎる。「誰もなりたくてなるわけじゃないのにね。」と叔母も真剣にTVを観ていた。

  他人からはよく「叔母さまはお幸せね。」と言われる。人前では叔母も「ええ。私一人ならもうこの世にいません。」と微笑んでいるものの、「自立した生活ができないことは情けない」と口にすることがある。 介護する側の人間よりも介護される側の人間は苦しいのだ。
叔母自身はいくつになっても自分の方が何かしたいという思いがある。私には痛いほど解かる。
私がまだ幼子の頃、叔母はデパートのショーウインドーでマネキンに着せられた可愛い洋服や靴を見つけると早速買い求めて札幌へ送ってくれたという。あまりにぴったりのサイズのものが贈られてくるので<すぐに小さくなってもったいない>と、母は親友に漏らしていたそうだ。
夏休みに母と函館のプラットホームに降り立つと、叔母がスーツ姿で颯爽と出迎えてくれた。
若き日の叔母の姿が今も目に焼きついている。
どこの親でもそうではないか?年を取っても子供のために何かしたいと思っている人の方が多いのではなかろうか?!認知症になったからわからないなどということはない。すぐに忘れても思い出せなくても人格が変わっても、大切な記憶は必ずや保管させているはずである。

  私がギックリ首警報で辛いときに施術をお願いしている整体の先生が、神の手とも呼ばれる気を発する手で私と叔母を楽にしてくださる。二人の身体を癒しながら、「お互いに必要とされて一緒にいらっしゃるのがよくわかりますよ。」と言われた。それは何万の言葉を尽くされるより、私たちを元気にしてくれる一言であった。

  明日のことは誰にもわからない。
看護師をしている親戚のお姉さんが叔母に「私が訪問看護をしていた患者さんに107歳の人がいたの。おばさんも107歳まで頑張ってよ!」という言葉をかけた時に、はっとした。
107歳まであと20年。しかも数えで108歳とは、何とめでたい!“茶寿の祝”ではないか?!(茶の字を分解すると草冠は旧字で十が二つ、その下が八十八(10+10+88=108)という意味)もちろんいつまでも長生きしてほしいと思っている。
しかし、平均寿命を過ぎ、心臓疾患などを抱えてしまうと、いつどうなるかわからないという今日明日の覚悟はあっても、10年、20年後の覚悟があるかと問われれば、それはなかった。
こればかりは天命だから、あり得ないことではないのに。
20年後私は・・・?
とにかく認知症になどなっている暇はない。病魔にとりつかれぬように護摩を焚く?
否そういうことではなくて、ますます健康に留意して血液をサラサラに保ち、更に脳年齢を若返らせる努力をしなくては、これから続く介護もおぼつかなくなってしまう。
手は自然に計算ドリルへと伸びていた。
そして弘法大師が作られたとも伝えられる「いろは歌」が口をついて出た。

色は匂えど散りぬるを
我が世誰ぞ常ならむ
有為の奥山今日越えて
浅き夢見じ酔いもせず

  人生は無常。過去を嘆かず、明日を厭わず、今このときを懸命に生きる。
人として生まれてどのような障害や苦難が待ち受けていようとも、正面から向き合って現実を受け入れ日々の努力を怠らないことが真に“生きる”ということなのかもしれない。

  陽はまた昇る。介護の部屋にもやわらかな希望の光が注ぐ。

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