NO.101
介護の部屋14
2006.6.29
  今や「認知症」は老人だけの問題ではなくなった。
最近テレビなどでよく聞かれるのが「若年認知症」という言葉である。
64歳以下の患者が4万人いると言われている。
折しも、アルツハイマーによる若年認知症をテーマに、渡辺謙さんのプロデュース・主演の映画「明日の記憶」が上映されているので是非とも観たいと思っていたところ、お友達のままごんさんはご覧になったとブログの記事に書かれていた。
また若年認知症には「ピック病」というものある。アルツハイマーより少ない病とは言え、記憶力、知能機能低下よりも人格障害が顕著で、短命になる傾向があるというから怖い。しかも平均発症年齢が49歳だという。

  私は普段から音読もし、水引細工で手先も使っている。如何せん、計算は電卓任せ。
経理に携わっていた時代もあるから電卓を叩くのは少しは速いと思うが、暗算は苦手。
それに引きかえ、そろばんの心得のある人は流石である。お父様のそろばん塾で先生をしていたことのある京都の友人が、割り勘の際に見事な暗算をするのに感嘆し、羨望の眼差しを送りながらすっかり甘えてお世話になっていた。
私など二桁の九九を暗記しているというインドの小学生たちにも到底敵いそうもない。「計算」と聞いただけで拒絶反応が起きる。

  先月末、サンサンてるよ様と初めてお話しする機会を得、計算ドリルの話題が出た。「やっぱり必要かな?」とその日のうちに書店で「脳を鍛える大人の計算ドリル」を求めたものの、手元にあるというだけで満足し、毎日横目でちらと確認するだけで、まだ手をつけていないのだから困ったものだ。
朗読のウォーミングアップに発声練習をしていて時々ろれつが回らなくなったり、急に言葉に詰まったり、どうしても人の名前が出てこなかったりすると疑問符が3つぐらい心の中に生じる。
物の本によると、「ど忘れ」の段階でそのまま放置せずに出来るだけ思い出す努力をする、あるいは調べるなどして記憶回路を修復しておくことがその後「あれこれそれ症候群」にならないための予防策なのだという。
最近とみに<危ないかも?>という不安が黒点のように頭をちらちらし、次第に大きくなってくる。と思ったら、カラスだ!どうも前々号以来、未だに烏が頭の中に棲みついているようだ。リセットできないというのがそもそも危険信号ではないか?

  ベルギーの友、オニオンさんに無料で脳年齢チェックができるサイトを紹介していただき、早速トライしてみた。3問あって最後の問題は文章を読んで質問に答えるという形式だった。何と読み終えないうちに時間切れになってしまい2問目の質問に答えられなかったのはショックだった。脳年齢はかろうじて実年齢をキープしたものの、冷や汗ものだった。このテストは世界最先端の「成功」ノウハウと、「速聴」などの大脳生理学に基づく独自技術を融合させた「能力開発プログラム」を開発・販売している会社のHPの中にある。
速聴より差し詰め「速読」の必要に迫られているのかもしれない。出たとこ勝@負ログさん経由でたどり着いた「松葉便り」という興味深いページに速読についての記事があったことを思い出した。もう一度読み返してみよう。

  これまで脳卒中なんてまだまだ自分には関係ないと思っていたが、近頃は若年の「脳梗塞」という病気もよく耳にするようになった。2004年の3月、長嶋監督を襲った病も脳梗塞と報じられていた。お酒も嗜む程度、タバコも吸わず、健康には注意されていたにも拘わらず、この病気を発症した背景には心臓疾患による不整脈があったようだ。
脳卒中は脳の血管に異常をきたして起こる病気のすべてをさし、日本人の病気死亡原因の第3位である。近年は脳出血より脳梗塞が増加し、死亡率が低下している反面、患者数は増加の一途を辿っているという。
脳梗塞は半身が麻痺したり、重症の場合には寝たきりになるケースもある。
身体はどこが悪くなっても困るが、身体の自由が突然奪われたり、明日の自分さえ見失ってしまうような脳の病気は困る。予防できるものなら何とかしたい。認知症がじわじわと進んでいる叔母の日常を目の当たりにしている私は身につまされてそう思う。

  4月の上旬であった。いつものように朝起きるとまもなく叔母が頭痛と目眩、吐き気を訴えた。
言葉ははっきりしていたのでそれほど心配はしていなかったが、すぐに病院へ連れていった。
本人も嫌がらなかったところを見ると、異常事態を感じていたのだろう。
到着後まもなくCT検査が始まった。これはまたとないチャンスだと思った。
最近叔母には出来ないことが増えてきた。ストーブの点け方も時々忘れる。夕食時、仏飯器を手に「ご飯はどこ?」と移動することのない炊飯器を探している。テレビをつけるのにリモコンを使うことを忘れて困っていることがあった。
直近のことはすぐ忘れる。同じ事を何十遍も言ったり、問いかけたりする。
叔母には前々から一度脳ドックを受診してもらいたいと願っていたが、「認知症」の心配などと気付かれたら拒絶されるに決まっている。

  検査の結果、脳に異常はなく、先生の説明では「一時的に血流が悪くなったのでしょう。そういう時は水分を摂って、少し安静にしましょう。それでも具合が悪いようならすぐに来院するか、連絡して下さい。」とのことだった。「年齢なりの動脈硬化はありますが、極端な萎縮も見られません。中にはこの辺がミッキーマウスのような形になっている人もいるんですよ。」と断層写真を指差す先生。最後に「年齢より脳はずっと若いですね。」と告げられ、本人は何でもなかったという安心感と同時に「若い」という言葉に気分をよくしているようだった。
ほっとする一方で私の中には釈然としないものが残った。
本人の前だから先生が触れないという感じはなかった。重大な疾患があれば、私だけを呼んで説明があるはずだ。ということは?叔母ぐらいの年齢になれば、誰しも現在の程度の認知症はあるということか?そのことにむしろショックを受けていた。

  しばらく時を経てから私は一人で病院へ出かけ、先生に再度詳しい説明をお願いした。
認知症には大きく分けて「アルツハイマー型」と「血管型」がある。
先生の説明は以下のようなものだった。
叔母の認知症は「血管型認知症」で加齢と共に起こる一般的な認知症状である。場所は前頭葉で、知能、人格に関わる場所。物忘れに始まり、急に泣いたり怒ったり感情がコントロールできなくなることがある。症状が進むと幻覚が表れたり、妄想を信じ込んだり、悪くすると人格そのものが壊れてしまうこともあるそうだ。3段階にわけるなら、現在の状態は真ん中よりいい方(軽度)であるという。アルツハイマー型の認知症と違って有効な薬はない。萎縮してしまった脳は改善することはない。しかし、症状を進ませない方法はある。最も効果的な方法とは適度な刺激と他者とのコミュニケーションであるという。

  高齢者の場合、認知症を発症する人の多くはどちらかというと社交性を欠き、神経質、几帳面で家にこもりがちの人が多い。必然的に「デイサービス」に行ってみようか」などという気持ちはさらさら起こさない。叔母の言い分はこうである。
「あそこって少しぼ〜とした人が行くところじゃないの?歌ったり、跳ねたりお遊戯みたいなことして、あんなの嫌!そんな暇ないもの。家ですることがいくらでもあるの。ご免だね。」である。
叔母の中ではそういうイメージらしい。
ご近所にも「絶対行かない!」と頑張っていた94歳のおばあちゃまが、一度体験したら「楽しくて楽しくて!」と週2回のお迎えを楽しみにしているそうである。忙しいクリーニング店のご隠居様で、家人も忙しく相手もできないから一日中ぼんやりテレビを観て暮らしていたが、デイサービスに行くようになってから血色もよくなり、お洒落もするようになって、見る見る間にお元気になったと喜んでいた。
そんな話をさりげなくしても「人は人。私にも行きなさいっていうの?!」と感情的になったので、それ以来話をするのは止めた。

  現在叔母の介護認定は要介護1のレベル。介護保険制度が変わり、叔母のレベルでは1日1時間半しか介護保険によるサービスは受けられない。週に一度、ヘルパーさんには主に掃除をお願いしている。私が同居している今、目的は掃除より家族以外の人とコミュニケートする時間を設けることにある。家庭では惚けた老人でも第三者の前ではしゃきっとすることはよくある。つまり、他人の前では優先順位のトップが「プライド」になるのだ。そこで会話のつじつまが合ううちはまだ大丈夫なのである。(NO.102に続く
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