迷いの窓NO.100
時の記念日にU
2006.6.10
  <たち切れ線香>〜あらすじ〜
茶屋遊びの過ぎた船場の大店の若旦那が懲らしめのために蔵に閉じ込めれてしまう。馴染みの芸者小糸は若旦那恋しさに毎日文をよこすが取り次いでもらえず、80日目にぷっつりと音信が途絶える。100日目に蔵から出してもらった若旦那、矢も盾も堪らず、愛しい小糸に会いに行くと・・・、返事ももらえずすっかり若旦那に嫌われたと思い込んだ小糸は日に日に痩せ衰え、すでに儚い身の上となっていた。小糸のことを思い、詫びながら仏壇に線香を上げていると突然三味線が鳴り出し、懐かしい小糸の声が聞こえてくる。若旦那が好きだった地唄の「雪」であった。
しばらく聴き入っていたが、ハタと三味線の音が止んだので
「どうしたんや、なんでしまいまで弾いてくれへんのや」と若旦那。小糸答えて
「小糸はもう三味線弾かしまへん。ちょうど線香が立ち切れました。」という何とも洒落た「落ち」なのである。
純愛物のいい噺だが、これも線香代の意味がわかってこそ生きるというものだ。
先に説明したのでは全く洒落にならない。

  中国では漢の武帝が李夫人に先立たれ「反魂香(はんごんこう)」を焚くと面影が現れたという故事がある。能『花筐(はながたみ)』にも照日前がこの故事を物語り、曲舞を舞うシーンがある。
「反魂香」とは死んだ人の魂を呼び戻す香」のこと。「たち切れ線香」には洒落だけでなく、若旦那の小糸に対する一途な思いが込められているに違いない。
文楽では近松門左衛門の手になる『傾城反魂香』が知られており、歌舞伎でも演じられる。
一方、落語の「反魂香」は浪人島田重三郎と花魁高尾太夫との悲恋を題材にし、香煙から現れた高尾太夫に「徒にゃ焚いて下さんすな。香の切れ目が縁の切れ目。」と語らせている。

  線香から艶っぽい話の展開になったので、浮世絵にも触れておこう。
上方浮世絵の最重要画人としての呼び声が高く、女流画家上村松園さんに多大な影響を与えたと目されている西川祐信(すけのぶ)にその名も『柱時計美人図』(東京国立博物館蔵)という絵がある。美しい女性が夜も更けた頃、時間を戻して恋人を繋ぎとめようとでもするように和時計の分銅の紐を結んでいる姿がいじらしい。
また特筆すべきは、普段は窺い知ることのできない遊女の一日に密着し、心の襞までを描き出した遊里の絵師喜多川歌麿の「青楼十二時シリーズ」である。
中でも私が好きな作品は『青楼十二時卯の刻』。それは吉原へ泊った客を送り出す遊女の姿である。客は大門の開く卯の刻(明け六つ)には帰るしきたりになっていた。この絵には客は描かれていない。客の着替えを手伝う遊女が羽織の額裏を見せて今にも客に着せかけようとしている構図だ。別れ際は女の見せ場でもある。
相手は間夫(まぶ)(情人)か色(惚れた男)かは知らねども、悲哀よりも心意気を感じる一枚だ。

  人々に時を知らせた寺院の鐘。
日没時、あちこちの寺から一斉に鳴らされる晩鐘は、それぞれの寺の管理でならされるために少しずつずれて輪唱のように聞こえたという。これを“入相の鐘(いりあいのかね)”と呼んだそうである。
夕方の鐘は“昏鐘鳴(こじみ)”とも。何と情緒のあることか?
明け六つを虫が黙る“しじまの鐘”や“暁の鐘”、就寝を告げる四つ時の鐘を“寝よとの鐘”や“人定鐘”、お寺で勤行の始まる午前4時の鐘を“後夜(ごや)の鐘”などと呼び、俳句や短歌にも盛んに詠まれた。
また、このように時を呼ぶこともあった。<かれは誰と見分けのつかぬ時>と言う意味の「彼誰時(かわたれどき)」(明け方)や<あれは誰か>の意味の「誰彼時(たそがれどき)」(=黄昏時)、同じ黄昏時でも「逢魔が時」(大禍時)おおまがどき))、「雀色時(すずめいろどき)」と表現するなど。
昔の人は音や色を敏感な心で感じとり、想像力を駆使して豊かな日本語を使っていたのだとつくづく思う。
それに引きかえ 現代はどうだろう?どこにでも時計がある。たとえ時計を持たなくても携帯電話に表示されている。しかもデジタル表示である。ただただ、時間に追われるような生活を送り、自ら体内時計までも狂わせ、時のうつろいを楽しむという余裕を失ってしまっているように感じられてならない。

  私が中学生の頃、筒井康隆さんの「時をかける少女」がNHKの少年ドラマシリーズ「タイムトラベラー」というタイトルでドラマ化され注目を集めた。27世紀からやってきた未来人の少年と今を生きる少女が出会い、不思議な体験を通して思春期を駆け抜けていく物語。
ラベンダーを媒体とする液体で時間移動できるというストーリーであった。
今でこそ、過去を遡ったり、未来を旅するこの手のお話は映画や小説にたくさん登場するが、その頃はまだ時間移動、タイムトリップなどという言葉が新鮮な響きを持っていた。
私は今でもラベンダーの香りを嗅ぐと、試験管やフラスコの割れる音が聞こえて、どこか違う時代へ遡れるのではないか?未来の自分に出会えるのはないか?という幻想を抱くことがある。

  中学3年の時だった。「シュメールの少年」という短編小説を書いた。
受験生の女の子が時空を超えてメソポタミア文明の発祥の地へ・・・そこでシュメール人の一人の少年と出会うところから壮大な時間旅行は始まる。
そこにいた少女は確かに等身大の自分だった。
世界最古の文明メソポタミアを築いたシュメール人たちの偉大な知恵に瞠目する自分がいた。日干し煉瓦を用いた住居、日常の生活までもが楔形文字を使って粘土板に記録されている。驚くべきことに彼らはすでにビールやワインも製造していたのだ。
太陰暦、閏年、占星術、法律など、人間の叡智を結集させた神秘的かつ実用的な学問、文化が開花し、一大都市文明が人類の夜明けを告げた。現在時計に使われている六十進法も彼らの知恵だ。
この夢のような体験を経て、私はその後、西洋史という学問の扉を叩くことになる。
自分にも時をかける、そんな青春時代があった。


  ふと我に返ると、日付が「時の記念日」から一、二、三と三日を経過して、今日は6月14日ではないか?!はあて・・・うたたねどころか、私は過去へ旅をしていたのだろうか?
あのシュメールの少年に再び会うために・・・。そして輝く未来だけを見つめていたあの頃の自分を探しに・・・。



<参考文献>
『文字の風景』写真:野呂希一・文:荒井和生(青菁社)
『浮世絵師列伝』小林忠監修(株式会社平凡社:別冊太陽)
『江戸300年吉原のしきたり』渡辺憲司監修(青春出版社)

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