NO10
見えざるもの
2003.11.9
  先日、最近になく胸の透くTVドラマを見た。
筋立てをご紹介しよう。商社のキャリア組だった北浦花子さんが不慮の事故で亡くなって、会社のロッカーに幽霊として住み着いてしまう。ダメな新入社員や悩みを抱えた女子社員にしか見えない花子さんは、彼女たちが困った時に手を差し伸べ、いつしか「ロッカーの花子さん」と呼ばれ、慕われるようになる。
上品な60年代ファッションで現われる、ドールハウスのようなロッカーの住人は、幽霊と言うより掌サイズのかわいい魔女というイメージ。
必要な時は等身大に変身して、救世主のように登場するのである。

  胸の透く思いを抱かせた問題の最終章は、ご多分にもれず業績が悪化し外資系会社との合併話(ほとんど乗っ取り)が進む中、花子さん見えるクラブの落ちこぼれの面々が、仕事や愛社精神に目覚めて会社を危機から救うというもの。
最後の株主総会で、花子さんが半人前を自覚するの女子社員に自分の言葉で語らせるシーンがある。
「会社が人を育てる場所でなかったら、新入社員を雇う必要がどこにあるのでしょうか?」と。
断っておくが、くれぐれも読者には「賃金が安いから」などと返さないでいただきたい。
入社以来上司に新人と言われ続けて実は育ててもらったこと、いらない人間なんていない、一人一人が会社にとってなくてはならぬ存在ということを、花子さんは教えてくれたのである。

  長い景気の低迷という暗いトンネルから未だ抜けられない日本経済の中で、このように「人を育てる」機能を持っている会社が少なくなっていることは否めない。
みな目先のことに必死である。
どんな会社にも経営理念があり、社会貢献という言葉は出てくるが、社員を雇用して育てることも立派な社会貢献の一つと言えるのではないだろうか。
しかし、時代は即戦力。新入社員の雇用は極端に減少している。
出来れば保険などの保障はつけたくない、サービス残業は当たり前、ダメなら取り替える人の使い捨て時代。
こういう環境の下では、「やり甲斐よりお金」という意識になってもおかしくないし、人も育つまい。  会社のためなどとおくびにも出てこないし、ましてや自分の存在が「一隅を照らす」など信じ難い。

  一方不景気に動じない会社は、人を中心においた独自の経営を行っている。
北海道に「六花亭」という有名なお菓子の会社があるが、同社の社長は菓子の原料を育んだ土地を大切にし、人事部も管理職もおかず、毎日1300名の社員の書く一言に目を通し、人事を一手に掌握されていると聞く。その体制の下で職人は物作りに没頭することが出来、次々と新しいヒット商品を生み出していく。
ちなみに年商180億円、40億円アップペースで業績を伸ばしている。収益は結果に過ぎない。
肝心なのは会社に「人を育てる土壌があるか?」ということではないだろうか?

  最近社葬の件数や規模が縮小しているのも、不景気のためばかりではなく、創業当時の純粋な理念(利他の精神)を受け継ぐという意識が希薄になっていることに、少なからぬ影響は認められないだろうか?
個人の死が残されたものにとって生きる意味を考えさせるものであるとすれば、社葬は会社の存在意義と進むべき方向を再考する為の重要な会社の通過儀礼と言えるだろう。
通過儀礼がなければ、人も会社も成長できない。

  奇しくも今日は衆議院選挙の投票日。
景気の回復、雇用の促進、保障の充実などが公約に掲げられているが、政権でにわかに変えられるような問題でないことは誰の目にも明らかである。
世の中リストラや生活不安を感じることなく、老いも若きも雇用の機会が与えられ、幸せや希望のある社会を作るのは、特定の政権などではなく、いわんや見た事もない救世主でもない。
確かに経営者や政権を預かる者が目覚めなければ埒が明かない感はある。
しかし、我々自身が社会にとってかけがいのない存在であることを自覚し、見えない真理から目を逸らさないようにすることが、幸せになるための当面の近道であるように思える。
  仏教用語で「(あきら)める」とは真理を明らかにするという意味である。
今日選挙で諦めながらも一票を投じた人も、自分の意識を少し変えることで、「世の中捨てたもんじゃない」と思える日が必ずやって来るはずである。

  ロッカーの花子さんは諦めながら日常に埋没している現代人に、本当に大切なことは何かを暗示してくれたような気がする。
それゆえ、共感を覚える視聴者も多かったのだろう。
共感出来るという事は、「見えない真理」に深層の部分ではすでに気が付いているという事かもしれない。
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