迷いの窓NO.1
HP公開の日
2003.7.17
光悦垣の写真
季節は移ろうゆえに美しい。
命は限りあるから輝く。

あるお寺様曰く、「仏の教えは一つである。山に例えるなら、そこへ辿り着くルート(方法)
がいくつもあり、それが仏教宗派となったのだのだ。」と。

ふと、あるご葬儀の後に営まれた、還骨法要の記憶が蘇る。
浄土宗のお寺様が、蓮如上人の「白骨の御(ふみ)」を読み聞かせたことがあった。
(あした)には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり。」
ご宗旨が浄土宗のお家で、法要に浄土真宗の「お文」が読まれるのは珍しいことである。
仏教とは何と寛容なものか、とつくづく感得していたが、ハタと思った。
これこそ私自身の「こだわり」ではなかったかと。
御仏の教え、すなわち「何事にもとらわれない、生死(しょうじ)を超える」とは、まさにこのことであっ
たのだ。凡夫のまことに小さな「気付き」である。

最近では「超宗派」という言葉も聞かれるようになった。
檀那寺と檀家という意識が希薄になる中で、お寺自体が宗派を超えて、本来担っている社
会的機能(古来お寺は、教育機関、病院、老人ホームという役割も担っていた。)に回帰しよう
という動きが生まれている。

昨今、あまりにも悲しいニュースが多すぎる。
私はこれまで数々の素晴らしい宗教者とお出逢いをさせていただいたが、お寺イコール葬儀、
お墓というイメージではなく、信仰の有無に拘わらず、社会がよりよい方向へ軌道修正できる
ように、正しい教えで衆生を導いていただきたいと願う次第である。

そして自身もまた、気付かせていただく為の精進をしなければと心に誓うのであるが、これも
凡夫の悲しさで、煩悩と言う迷いの窓からは、きっと逃れられないのであろう。
本日ホームページの公開にあたり、このページを「迷いの窓」と名づけ、大いに迷いながら時々思いつくままを認めて、更新したいと思う。
この四角い窓から、一歩外へ出られる事を常に願いながら。


迷いの窓 トップへ メール
メール