法衣の色

最も高貴な色の所以

は黒と赤を併せた色。陰陽を一元に統一する対極、北極星のシンボルカラーなる。北極星図

  中国では天帝の服色となり、
居処「紫微垣(しびえん)」ラストエンペラーの舞台となった「紫禁城」にも名称が冠せられ、日本では京都御所の「紫宸殿(ししんでん)」となる。

ひな祭りに右近の桜、左近の橘を飾るのはお内裏様が紫宸殿におわすからである。


孔子を嘆かせた紫

  香道の組香の中に「五色香」と呼ばれるものがある。
陰陽五行と密接な関係があり、香りを五味(酸・苦・甘・辛・鹹)で表す香の世界で、五色と言えば勿論五正色のことである。
子曰く 「紫の朱を奪うを憎むなり」とは
紫草(本来正色でない紫)が野末の草木までを凌駕していく様を捉えて、孔子がその理不尽を嘆いたものと言われる。

紫への憧憬
  古代の遊猟は薬剤、薬草を採取する目的の薬猟。
女たちは薬草を摘み、男たちは若鹿を追って強壮の秘薬袋角を得た。額田王
処は現在の滋賀県の蒲生野。
ここは紫草や薬草を栽培する御料地、いわゆる禁野(しめの)である。
紫草の白花咲く花畑に、王朝貴族のまとうとりどりの冠服の色が虹のようになって見え隠れする。
ひときわ目を引いたのは深紫の裾を長く引いて金銀燦爛の装身具を身につける額田王の姿であった。
紫のにほへる妹と詠われた額田王と大海人皇子(天武天皇)の世紀の相聞歌が交わされる光景は、紫への憧れとなって、日本人の色の記憶に刻まれてゆく。

  あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
  紫のにほへる妹をにくくあらば人妻ゆえにわれ恋やめも
 
 
紫衣事件  

 1629年徳川三代将軍家光の時代、禅僧の世界でシンボリックな権威の象徴となっていた紫衣を取り上げた事件。
禅僧が紫の衣を身に着けるには「寺院法度」に定められた条件があった。 
 千七百の公案を通過したことや、三十年間修行した事など。
調べてみるとそんな人は一人もいないのに、紫衣を着た僧侶の数があまりにも多かったために起こった事件。  紫衣を剥ぎ取られたばかりか、沢庵、玉室両和尚は流罪になっている。
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